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<< 一の鳥居−→太鼓橋−→西行稲荷社−→四合稲荷神社−→階段−→ −→二の鳥居−→黒門−→氷川神社のイチョウ−→包丁塚 >> ● 一の鳥居 境内には南側の参道と東側の参道にそれぞれ二つの鳥居があります。 一の鳥居(南側)には「大正11壬戌年9月」「麻布 芝 氏子中」と記され、麻布・芝周辺まで信仰圏が及 んでいました。 また「御即位記念 寄附 苗村又右衛門」と刻まれていることから、大正4年(1915)11月の大正天皇即 位の礼に合わせて、氏子惣代の苗村又右衛門から奉納されたことがわかります。 ● 太鼓橋 (一の鳥居の左側) ● 正一位西行稲荷社 (一の鳥居の右側) 文政(1816〜1830)年間、町方書上の赤坂田町4丁目より録写したところによれば、町内自身番屋敷 地内に古来からあった祠堂で本社は6尺に7尺5寸、拝殿2間4方で前方に3尺に6尺の向拝がありま した。 勧請の由来は、年代不詳(享保年間ともいう)、田町5丁目に西行五兵衛と異名をもつ男あり 榎坂を通行中、甲冑を帯し弓箭を携え、狐の形をしている3寸ほどの鉄像をひろいとったが、稲荷の 御神体らしい云うので、これを勧請し、五兵衛の異名を以って、西行稲荷と唱えられました。 明治以降、町の発展に伴い、大正10年(1921)9月氷川神社境内に移し、別名「火伏の稲荷」ともいい 火災除の御神徳があると称されております。 平成7年9月吉日建立 赤坂田町3・4・5丁目会 ● 四合(しあわせ)稲荷神社 *毎年4月15日例大祭(自由に参列して下さい) 御祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)・・・食物の神、殊に稲の神 御縁起 (1)古呂故(ころこ)稲荷・・・赤坂一ッ木2番地、古呂故天神社境内に鎮座 (2)地頭(じぬし)稲荷・・・氷川神社遷座以前より拠の地に鎮座 (3)本氷川稲荷・・・本氷川神社隣接、別当盛徳寺の地内に鎮座 (4)玉川稲荷・・・赤坂門外の御掘端、現弁慶橋のあたりに鎮座 以上、四社を明治31年、遷座合祀し、赤坂在住の勝海舟翁により「四合(しあわせ)稲荷」と称え られる。 大正14年に、鈴降稲荷神社(赤坂一ッ木町に鎮座)及び、縁起稲荷神社(赤坂丹後坂下に鎮座) 二社を、また昭和9年に、明徳稲荷神社(赤坂新町に鎮座)を、遷座合祀し、現在に至る。 勝海舟翁筆の「四合稲荷社」という扁額が、現存する。 附記 古呂故稲荷神社は、古呂故天神社境内、氷川旧社地(氷川御旅所)に祀られていた稲荷社であっ て明治17年、氷川旧社地を売却した際、現氷川神社境内へ遷座、のちに四合稲荷に合祀された 地頭稲荷神社は、享保年間、現氷川神社遷座以前より祀られていた稲荷社である。 本氷川稲荷神社は、本氷川神社(昔は溜池付近にあり、のち承応3年に、現氷川神社の隣地へ 遷座、今井の総鎮守として、住民から尊崇を受けていた) 境内の稲荷社で、本氷川神社と共に明治16年、現氷川神社けいだいに遷座、のちに四合稲荷に 合祝された。 玉川稲荷神社は、水道方玉川庄右衛門の邸内社だったとする説もあるが、御神体が玉川上水に 流れ来た故に、玉川稲荷と称したものと推定される。 明治21年、現氷川神社境内に鎮座、のちに四合稲荷に合祀された。 ● 一の鳥居の先の階段をのぼります。 *(右画像/振り返って) ● 二の鳥居 ● 黒門 ● 氷川神社のイチョウ(東京都港区指定文化財 天然記念物) 目通り(地上1.5mの高さ)の幹径約2.4m、幹周約7.5mを測る推定樹齢400年の巨樹である。 氷川神社の記録をはじめ記載された史料はないが、神社が現在の地に建立された享保15年(1730) には、すでに100年を超える樹齢を有していたと考えられる。 イチョウは、生きた化石とも言われ、1億5千万年前には地球上のいたるところで生い茂っていた。 氷河期に絶滅しかけたが、中国大陸南東部に残っていたものが、日本に渡ってきたといわれる。 落葉性の大木で成長も早く、高さ30mにも成長する。 雌雄異株であり、この木は雄株である。 港区内に現存するイチョウでは最大である善福寺「逆さイチョウ/国指定天然記念物」に次ぐ大きさと 樹齢を保っている貴重な樹木である。 平成6年9月27日 東京都港区教育委員会 ● 包丁塚 昭和49年(1974)11月に赤坂青山料飲組合が使わなくなった包丁を奉納したもので、傍らには包丁 塚30周年記念の碑も建てられています。 なお、「包丁塚」の字は衆議院議員を務めた田中栄一の書です。 現在、当神社では10月上旬の土曜日に包丁塚祭が行われています。 (全景は、パノラマでご覧ください) (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |