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<< 鳥居−→祭礼−→神輿庫−→力石−→氷川神社遊び場−→ −→しめ縄のかかったイチョウ−→浅野土佐守邸跡−→九神社−→三の鳥居へ >> ● 鳥居を入ります。 ● 祭礼 例大祭・・9月15日 (神幸祭は例大祭に近い日曜日に行われます) 江戸時代、最盛期の祭礼では、幕府の監督下のもと、宮神輿2基と江戸型山車13本、さまざまな 附け祭りが氏子地域を巡行し、江戸で3番目に位置付けるほどの規模でした。 現在の神幸祭では、徳川吉宗公将軍就任300年を機に、平成28年に新調した宮神輿が連合巡 行し、都心の高層ビルを背景に、江戸絵巻が繰り広げられています。 氏子地域 赤坂・元赤坂全域、六本木1丁目・3〜4丁目・虎ノ門4丁目の一部 ● 神輿庫(鳥居入り左) ● 力石(神輿庫のそば) 「三十五貫」と切符があるこの力石は、神社境内の土中から発見されたものです。 この力石にまつわる話は特に伝わっていません。 力石は、腕力や体力を鍛えるために重い石を持ち上げて「力競べ」、あるいは「曲持ち」を行った際に 使用した石で、江戸時代には、神社の祭礼などに奉納のため盛んに行われました。 区内の力石は全部で14点確認されていますが、ほとんどが海岸沿いの神社に残されているのに対し この1点だけが海岸から遠く離れたこの地にあり、興味深い例です。 港区教育委員会 ● 港区立氷川神社遊び場(鳥居入り右) ● しめ縄のかかったイチョウ ● 浅野土佐守邸跡(あさのとさのかみていあと/東京都指定有形文化財・建造物 九神社そば) 所在地 港区赤坂6-10-19 氷川神社他 標 識 昭和18年3月16日 指 定 昭和30年3月28日 元禄の頃、この地は備後国三次藩浅野家の下屋敷でした。 三次藩は、寛永9年(1632)に安芸国広島藩から五万石を分知され立てられた支藩です。 初代藩主は、安芸国広島藩二代藩主光晟の庶兄因幡守長治で、娘には、因幡国赤穂藩主浅野内 匠頭長矩の正室となった阿久里(阿久理、阿久利とも)がいます。 元禄14年(1701)3月14日、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を切りつけた元禄赤穂事件が起きま した。 長矩は即日切腹を命じられ、領地没収の上、家は断絶となりました。 そのため、長矩の正室阿久里は、出家し瑶泉院と称し、生家である三次浅野家に引き取られました。 以後、正徳4年(1714)に死去するまで、ここに幽居しました。 この事件が起こった時、藩主が土佐守を称した三代藩主長澄であったことから、「浅野土佐守邸跡」 として標識されました。 三次浅野家はその後、四代藩主、五代藩主ともに早逝したため享保3年(1718)に断絶となり、遺領は 広島藩へ還付されます。 享保15年(1730)、現在の赤坂4丁目からこの地へ氷川神社が遷宮され、今日に至っています。 平成25年3月 建設 東京都教育委員会 ● 九神社(くじんしゃ) かつて境内各所にあった天祖神社・春日神社・鹿島神社・八幡神社・諏訪神社・秋葉神社・厳島神社 ・金刀比羅神社・塞神社の9社を合祀した神社で、9社それぞれへの遥拝所的な要素があります。 戦前は現赤坂小学校にありましたが、戦後境内に遷されています。 ● 三の鳥居へ向かいます。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |