(4)西ゾーン・屋外展示物

       


              (W5)八王子千人同心組頭の家・・(3)八王子の穀倉・・(W8)綱島家

                        (W3)奄美の高倉・・(W4)吉野家


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  ● (W5)八王子千人同心組頭の家(はちおうじせんにんどうしんくみがしらのいえ)
            建築年代:江戸時代後期  旧所在地:八王子市追分町  寄贈者:溝呂木雄蔵氏
         八王子千人同心は、八王子で甲斐との国境を警備するため配備された武士団である。
         関ヶ原の戦いのころには1,000人ほどの規模であったため、その名がつけられた。
         武士とはいえ、平常は農耕を営む半農半士のきわめて特異な形態であった。
         1893年(明治26)に日野の大火で家を焼失した溝呂木家が、八王子にあった千人同心の子孫で
         ある。  塩野家から建物を買い取り、その部材を転用して日野市に農家を建てた。
         塩野家は千人同心の組頭を勤める家柄で、先祖は「桑都日記」の著者として有名な塩野適斎が
         いるこの建物は、溝呂木家の各部材に残る痕跡調査から、江戸時代末期の千人同心の住んで
         いたころに復元した。
         拝領屋敷地の組頭の家は、周辺の農家と比べると広くありませんが、 式台付きの玄関などは格式
         の高さを示しています。

    


                          


                      


    * (八王子千人同心の文化活動)・(八王子千人同心の組織)・(八王子千人同心の役割り)

                  


     ○八王子千人同心の文化活動
         江戸時代後期、千人頭や同心組頭の中から、塩野適斎(しおのてきさい)や植田孟縉(うえだもう
         しん)などのいわゆる文化人が輩出した。
         彼らは私塾を開き、文武の普及につとめ、多くの門弟を育てた。
         幕府の地誌編纂(ちしへんさん)に携わり、私撰の地誌や歴史書も残した。
         彼らの中には洋学を学び普及につとめる者や幕府の対外政策を論じる者もいた。
     ○八王子千人同心の組織
         八王子千人同心は、八王子とその周辺地域に居住した郷士集団である。
         もともと、甲斐武田氏の小人頭に率いられた同心衆が、武田氏の滅亡後、徳川家康の配下とな
         ったのが始まりである。
         1590年(天正18)、徳川家康が関東の領主となると、八王子に配備された。
         八王子千人同心は、10人の千人頭のもとに組頭100人、組頭のもとに平同心800人、持添抱同
         心(もちぞえかかえどうしん)100人(後に廃止)という構成であった。
           将軍−老中−鎗奉行−千人頭(10人)−組頭(100人)−平同心(800人)
                                   −持添抱同心(100人)1792年(寛政4)廃止
     ○八王子千人同心の役割り
         八王子千人同心の役割りは、当初、甲武国境を警備することであった。
         戦乱が収まると、将軍上洛や日光参詣の時の供奉、江戸城修復の時の警備を勤めた。
         1652年(慶安5)、家康を祀る日光の火の番を命じられると、この任務が主な役割りとなり日光勤
         番は江戸時代を通じて、一千回以上にものぼった。
         江戸時代後期には北海道の開拓や地誌編纂、幕末期には江戸警備や長州戦争への出兵など
         の勤めも果たした。

    * (八王子千人同心の住まい)・・(八王子千人同心の分布)・・(八王子千人同心の分布図)

                  


     ○八王子千人同心の住まい
         八王子千人同心の住まいに関する資料は極めて少ない。
         拝領屋敷地の様子がうかがえる「千人町図」によると、千人頭は広大な屋敷となっているが、組
         頭の屋敷地は広いものではなかった。
         一方、農村部の上層農家が同心株を取得すると、農家の構えに式台など士分の格式を付け加
         えていった。
     ○八王子千人同心の分布
         千人頭と組頭は現在の八王子市千人町付近の拝領屋敷に居住する士分であった。
         千人頭は200石から500石ほどの知行地を与えられ、組頭は約30俵1人扶持(1人扶持は男子1
         日5合で1年分)を支給されていた。
         平同心は八王子周辺農村に居住する上層農家が多かった。
         江戸時代後期になると、平同心の役職は株として売買されるようになり、同心の居住地域も現
         在の多摩地域全域や埼玉県、神奈川県まで広がっていった。

    * (風呂/右側)・・・(入口)・・・(土間) 

                         


    (勝手)

                  


                         


    (居間・座敷)

    * (居間)・・・(座敷)

                  


    * (廊下)・・・(式台)

                          



  ● (3)八王子の穀倉
         八王子にあったこの穀倉は、1800年代に建てられたものと伝えられている。
         現在内部は3部屋になっているが、もとは柱ごとに仕切があり、小部屋3室、大部屋2室の合計5
         室に分かれている。
         穀物の出し入れは前面の<落とし板>を取り外して行う。
         閉める時は下の板から順に落とし、最上級の横木に鍵をかけるようになっている。
         穀倉には米のほか、麦、粟、稗、豆などを貯蔵し、俵にして30俵分の収納ができた。
         小部屋の3室には、雑穀を俵に入れないまま貯蔵していた。
             年代:1800年代   旧所在地:八王子市館町   寄贈:守屋文夫氏

               



  ● (W8)綱島家(農家/つなしまけ)
           建築年代 江戸時代中期    所在地  世田谷区岡本三丁目
         多摩川をのぞむ台地上にあり、広間型の間取りを持つ茅葺きの民家です。
         広間をかこむ長方形断面の大黒柱や、押し板という古い形式の板などから、建物の歴史が感じ
         られます。

                  


                  


                  


                      


                         



  ● (W3)奄美の高倉(あまみのたかくら)[旧武蔵野郷土館収集]
          建築年代:江戸時代末期頃 旧所在地:鹿児島県大島郡宇検村 寄贈者:日本民俗学協会
        奄美大島にあった高床式の倉庫である。
        屋根の部分が穀物などを入れる倉庫になっており、倉の中へは梯子をかけて出入りする。
        建物の本体を柱で地面より高くあげているのは、湿気や鼠の害から穀物を守るためである。
        4本の柱はアカモモ(奄美大島ので俗称。
        一般にはツバキ科モッコク属)という堅い木材でできている。
        この高倉は1960年(昭和35)、現西東京市にあった「民俗学博物館」に移築、展示された。
        「民俗学博物館」は民俗学者で実業家でもあった渋沢敬三(1896〜1963)らが設立した私設博物
        館である。
        同博物館の閉館に伴い、江戸東京たてもの園の前身である武蔵野郷土館に再移築された。
        高倉は高湿多湿の地域に発達したもので、日本では南西諸島ほか東京都の八丈島などに見ら
        れる。

                


                  


                          



  ● (W4)吉野家(農家)[旧武蔵野郷土館収集]
            建築年代:江戸時代   旧所在地:三鷹市野崎二丁目   寄贈者:吉野悦時氏
         吉野家は、江戸時代後期に建てられた農家です。
         旧所在地は三鷹市野崎で、江戸時代は武蔵野国多摩郡野崎村であった。
         このあたりは、幕府および尾張徳川家の鷹場になっており、江戸時代中頃から開発が進められ
         た地域である。
         この建物には付け書院を備えた奥座敷が設けられ、部屋数の多く上層の農家であったことがう
         かがわれる。
         柱や小屋組には創建当初のものが残っているが、縁回りや建具は新しいものに変わっている。
         また、間取りはおおむね当初のままである。
         吉野家は、武蔵野郷土館時代の1963年(昭和38)に移築、復元された。
         建物の内部では昭和30年代頃の農家の生活の様子を再現している。

      


                  


     (玄関)

                  


     (台所)

             


     (勝手)

             


     (座敷)

                          


     (中の間)

                  


     (奥座敷)

                          



                         (画像をクリックすると、大きくなります)


                               ● (入口へ) ●

 

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