(6)センター・屋外展示物

       


                 (C3)高橋是清邸・・(C4)西川家別邸・・(C6)会水庵

                  (C5)伊達家の門・・(22)皇太子殿下御勉学の地


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  ● (C3)高橋是清邸(たかはしこれきよてい) 建築年代1902年(明治35) 所在地 港区赤坂七丁目
         経済通の政治家として、明治から昭和の初めにかけて日本の政治を担った高橋是清の住まい
         の主屋部分です。
         是清は、赤坂の丹波篠山藩青山家の中屋敷跡地約6,600平方メートルを購入し、1902年(明治
         35)に屋敷を建てた。
         総栂普請(そうつがぶしん)の主屋は複雑な屋根構成をもっており、また当時としては高価な硝
         子障子を縁回りに多量に使用している。
         赤坂にあったころは、主屋のほかに3階建ての土蔵や、離れ座敷がある大きな屋敷だった。
         1936年(昭和11)、是清はこの建物の2階で青年将校の凶弾に倒れた。(2・26事件)。
         敷地と屋敷はまもなく東京市に寄附され、記念公園となった。
         是清の眠る多磨霊園に移築され休憩所として利用されていた主屋部分が、この場所に移築さ
         れた。

               


                          


    * (玄関)

                  


                  


                          


                      


    * (二階へ)

                        


        是清はこの二間を寝室と書斎に使っていた。
        寝室の床の間の前には文机が置いてあった、寝る前にはその机で習字をするのが習慣であった
        書斎には大きな洋机が置かれ、仕事をしたり暇があると読書にふけっていたという。
        是清は1936年(昭和11)2月26日早朝、青年将校によって殺害された(2・26事件)。
        兵士十数名が寝室になだれ込み、白の寝巻姿で布団に座っていた是清に銃弾を浴びせ、軍刀で
        切りつけた。即死であった。
        是清は市民から「ダルマさん」と呼ばれ、親しみをもたれていたため、葬儀には別れを告げる人び
        とが多数参列した。
        波瀾に満ちた83年の生涯であった。

                  


                  


     写真はこの建物の2階の部屋で、書斎として使用していたもの。
     是清は毎日欠かさず日記をつけており、英字新聞も毎日購読していた。
     拡大鏡は辞書を引くときなどに使っていた。

                      


                         


                  


     


     高橋是清邸庭園
        港区赤坂にあった高橋是清邸庭園の一部を復元しています。
        組井筒を水源にした流れと、雪見型灯籠などを含む景観を再現しています。
        是清は芝生で日光浴や庭の散歩を好んだといわれています。

    * (高橋是清邸)・・・(西川家別邸)

                 



         



  ● (C4)西川家別邸(にしかわけべってい)
            建築年代:1922年(大正11)  旧所在地:昭島市中神町二丁目  寄贈者:西川知恵子氏
         西川家別邸は、西川伊左衛門により、接客用兼隠居所として建てられた別邸である。
         西川伊左衛門は、1893年(明治26)、現在の昭島市中神で北多摩屈指の製糸会社を設立した実
         業家である。
         江戸時代からさかんだった多摩地域の養蚕・製糸業は、大正期から昭和初期にかけて、技術改
         良や生糸価格の上昇にともない最盛期を迎えた。
         この建物には、まさにそのころを代表するように、良く吟味された部材が使われている。
         接待用の部屋と日常使う部屋とを左右に分けた間取りは、当時の住宅建築の主流をなした造り
         である。
         建物は、高橋是清邸の離れの位置に、建築当初の姿で復元している。

            


                          


    * (玄関)・・・(玄関の間)・・・(座敷)

                  


    * (茶庭 塩出英雄画 1936年(昭和11)吉祥寺時代の会水庵を描いた作品)

                          


                  


                     



  ● (C6)会水庵(かいすいあん)
            建築年代:大正期頃   所在地:杉並区西萩北五丁目  寄贈者:宇野克彦氏
         宗偏(そうへん)流の茶人、山岸宗住(会水)が施主となり、新潟県長岡市に建てた茶室である。
         1927年(昭和2)山岸家の東京移住に伴い吉祥寺に移築し、1957年(昭和32)、劇作家の宇野信
         夫に買い取られ、西荻窪に移される。
         山岸会水は自ら茶碗や花入などを造り、また聴雪という名で茶掛の絵を描き、茶庭(路地)の設
         計も行った。
         この茶室は三畳台目と勝手から成り、屋根は桟瓦葺で庇は銅板葺き、路地には腰掛待合と蹲
         踞燈籠を配している。
         建物は、もともと母屋に接続していたので西川家別邸に付ける形とし、可能なかぎり吉祥寺時
         代に戻して復元した。

    * (パンフレットから)

            


                  


                      



  ● (C5)伊達家の門(だてけのもん)   建築年代 大正期   所在地 港区白金二丁目
         旧宇和島藩伊達家が、明治以降華族に列せられ、東京に居住するため新たに建てた屋敷の
         表門。
         大正時代に建てられたもので、総欅造りである。
         起(むく)り屋根を持つ片番所を付けるなど、大名屋敷の門を再現したような形をしている。
         門柱の上に横方向に架けられた材(冠木/かぶき)には、宇和島藩伊達家の木彫りの家紋が施
         されている。
         宇和島藩は現在の愛媛県の西部に位置し、仙台藩主伊達政宗の子秀宗を祖とする外様大名
         であった。
         また、幕末の宇和島藩主は勤王家として有名であった。
         なお、この建物は1965年(昭和40)ごろに小金井公園に移築され、現在に至っている。

    * (パンフレットから)

     


                  


                    


    * (右画像/園内より)

                  


                  


                         



  ● (22)皇太子殿下御勉学の地(記念碑)

                  



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                               ● (入口へ) ●

 

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