![]() ![]() ![]() (E9)植村邸・・(E13)大和屋本店・・(E12)川野商店・・(E2)小寺醤油店 (画像をクリックすると大きくなります) |
<< (E9)植村邸−→(E13)大和屋本店−→(E12)川野商店−→(E2)小寺醤油店 >> ![]() ● (E9)植村邸 建築年:1927年(昭和2) 旧所在地:中央区新富二丁目 寄贈者:長谷川浩一氏 植村邸は昭和初期に建てられた建物である。 全体を銅板で覆われたその姿は、関東大震災ののちに多く建てられた看板建築の特徴をよくあ らわしている。 この建物は全体的には洋風であるが、2階に和風の高欄が取りつけられて和洋折衷のデザイン となっている。 また外観は装飾的につくられ、特に2階の窓の上にあるアーチ部分の装飾は非常に手がこんで いる。 装飾の中央にはローマ字の「U」と「S」わ重ねた模様が見られるが、これはこの建物を建てた 植村三郎氏のイニシャルからとったものと思われる。 この建物には、特に1階部分の銅板に多数の傷が残っている。 これは戦時中の空襲による爆弾等の破片が突き刺さってできたもので、空襲の様子を今に伝え る建物としても貴重である。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 看板建築・植村邸 植村邸は装飾豊かな銅板をふんだんに用いた看板建築で、屋根にはマンサード屋根が用いら れている。 設計は施主の植村氏本人が手掛けたもので、そのデザインは洋風を基調としているが、2階に は高欄を設けるなどの部分的に和風の味つけがされている。 間取りはほぼ正方形で、看板建築では奥に配置されることの多い台所や便所などが、植村邸 では出入口付近に置かれているのが大きな特徴である。 看板建築の現在 看板建築は東日本、特に東京に多くみられる。 現在、東京では神田や築地などの地域でみることができる。 ![]() ![]() ![]() 看板建築の誕生 1923年(大正12)の関東大震災は、その揺れの大きさもさることながら、揺れの後に発生した 火災によって、大きな被害を東京とその周辺部にもたらした。 江戸時代以降、東京の街並みを形づくってきた建物の多くが、この時焼失してしまった。 土蔵造りは、耐火性はあっても揺れには弱く、出桁造りは火にはまったく歯が立たない。 このため、東京の街はほぼ壊滅状態となった。 震災後、政府はただちに復興事業に着手するが、それは元の東京の姿に戻すのではなく、新 しい東京をつくることを基本としていた。 そのため、被害を受けた地域では区画整理が行われることとなり、その内容が確定するまでの あいだ人々は仮設の建物で過ごさねばならなかった。 かつての伝統的な商店が軒を連ねていた場所には、新たに仮設の商店が建てられたが、その 中に非常に表情豊かな商店が誕生した。 この表情豊かな商店に共通していることは、土蔵造りや出桁造り之ような軒の出なくなり、建物 の前面(ファサード)は平坦な造りになっていることである。 ファサードを平坦にするのは洋風の商店などにみられる手法であり、仮設とはいえ伝統的な店 構え以外の手法が用いられるようになったのである。 その後、これらの多くはコンクリート造りの大規模商店へと生まれ変わるが、ファサードを平坦 にする手法は、商店建築のひとつの方法として用いられるようになった。 このようにして生まれたのが看板建築である。 なお伝統的な手法である土蔵造りはほとんど建てられなくなるが、出桁造りは震災後も建てら れた。 看板建築とは 看板建築は、関東大震災以前にも存在していたようであるが、本格的に建てられるのは震災 後のことである。 その特徴は 1 木造の建物で、ファサードは平坦である。 2 外観上3階建てにみえるものが多いが、そのほとんどが2階建てに屋根裏を設けた造りで ある。 3 屋根には、屋根裏を設けるのに有効なファサード屋根(腰折れ屋根)を用いることが多い。 4 ファサードは出桁造りのように木造のままにするのではなく、銅板やタイル、スレートをはっ たりモルタルで仕上げる。 これは防火対策を図ったものであるが、その一方で、建物を表情豊かに飾りたてる手段と もなっている。 5 外観は洋風を基調として自由にデザインされるが、建物内部、特に居住空 間については 和風の伝統的な造りとするのがほとんどである。 6 間取りは間口が狭く、奥行きのある建物が多い。 そして、そのほとんどが商店であることから、1階入ってすぐが店舗とな っており、その奥 と2階以上が居住空間となっている。 という点があげられる。 このような看板建築の設計は、その地域の大工の棟梁や施主とのつきあいがあった画家、あ るいは施主自らが手がけるという点も特徴の一つである。 ![]() ![]() ![]() 看板建築とは 植村邸は、「看板建築」といわれるものである。 看板建築は、建物の前面が軒の出ない平坦な造りになっているのが大きな特徴で、そのほと んどが木造の商店建築である。 では、東京の商店には他にどのようなものがあったのだろうか。 そして看板建築は、いつごろ、どのようにして誕生し、前面が平らになっていること以外にどの ような特徴が見られるのであろうか。 伝統的な商店建築 1872年(明治5)、銀座やその周辺部を焼く大火事が発生した。 この大火事をきっかけとして、数年後に新たな防火規定が制定される。 これによって、現在の千代田区や中央区を中心に「土蔵造り」の街並みが誕生する。 土蔵造りは江戸時代にもみられるが、街並みのなかで占める割合はわずかであり、土蔵造り がずらりと並ぶ景観がうまれるのは明治時代になってからである。 ちなみに、埼玉県川越市に今も残る土蔵造りの街並みもまた、1893年(明治26)の大火のあと にうまれたものである。 これらの土蔵造りは黒漆喰で塗られているが、江戸時代末頃から続く伝統である (写真1) 一方、土蔵造り以外の商店はどのようなものであったかというと、小寺醤油店や仕立屋のよう な「出桁造り」が多く建てられた。 出桁造りは、文字通り桁が外に出ているもので、壁から突き出た梁や腕木で桁を支え、その 桁で屋根や屁を支える細かい角材(垂木)を支えるという造りである。 関東大震災以前は、土蔵造りや出桁造りといった、江戸時代から続く伝統的な形式の建物が 東京の街並みを形づくっていたのである。 ![]() ![]() ![]() ● (E13)大和屋本店(乾物屋/やまとやほんてん) 建築年代:1928年(昭和3) 所在地:港区白金台4丁目 港区白金台に1928年(昭和3)に建てられた木造3階建ての商店です。 3階の軒下を伝統的な〈出桁造り〉にする一方、間口に対して背が非常に高く、看板建築のよう なプロポーションを持ったユニークな建物です。 戦前の乾物屋の様子を再現しています。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ● (E12)川野商店(和傘問屋) 建築年代:1926年(大正15) 所在地:江戸川区南小岩八丁目 寄贈者:川野作次郎・久良枝氏 川野商店(和傘問屋)は大正15年(1926)に、現在の江戸川区南小岩に建てられた出桁造りの建 物である。 重厚な屋根の造りや江戸以来の町屋の正統的特質を継承する格子戸などの造作にこの建物の 特徴を見ることができる。 小岩は、東京の傘の産地として当時有名であって、川野商店では、職人を抱え傘を生産し、また 完成品の傘を仕入れ、問屋仲間や小売店へ卸す仕事をしていた。 川野商店で傘の生産を行っていたのは、明治末から大正5年頃までで、それ以降昭和20年頃ま では専ら問屋としての商いを行っていた。 建物内部では、昭和5年当時の問屋としての店先の様子を再現し、また蔵へとつづく渡り廊下で は傘の歴史や製作工程などについて解説している。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ● (E2)小寺醤油店(こでらしょうゆてん) 建築年代:1933年(昭和8) 所在地:港区白金五丁目 寄贈者:小寺恭夫氏 大正期から、現在の港区白金で営業していた酒屋で、味噌や醤油、酒類を販売していた。 看板で醤油店と掲げているのは、創業者が醤油醸造の蔵元で修行したためと伝えられている。 当時、酒屋で味噌や醤油を売ることは珍しいことではなかった。 1階、2階とも庇の下には、張り出した腕木とその上に桁がのっている。 これを、出桁造り(だしげたづくり)という。 隣りの蔵は、袖蔵といい、在庫の商品や生活用具を収納するためである。 建物は建築当初を復元している。 店舗部分は昭和30年代後半の柄杓と漏斗による量り売りの時代を住居部分は1990年(平成2) の解体時そのままの状態を再現している。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |