(E3)鍵屋(居酒屋)・・(E4)子宝湯・・(E5)仕立屋・・(E14)万徳旅館 (画像をクリックすると大きくなります) |
<< (E3)鍵屋(居酒屋)−→(E4)子宝湯−→(E5)仕立屋−→(E14)万徳旅館 >> ● (E3)鍵屋(居酒屋)[旧武蔵野郷土館収集] 746 建築年代:1856年(安政3) 所在地:台東区下谷二丁目 寄贈者:清水幸太郎氏 鍵屋は、下谷坂本町(現、台東区下谷)にあった居酒屋です。 1856年(安政3)酒問屋としてそうぎょうしたと言い伝えられ、酒の小売店を経て1949年(昭和24) から居酒屋の営業を始めた。 手頃な値段で旨く静かに飲むことのできる鍵屋は地域の人びと、職人、サラリーマン、芸人など に支持されていった。 また雰囲気と主人の人柄を愛して小説家の内田百間などの多くの著名人も通っていた。 鍵屋は当初平屋だったが、大正期頃に2階部分を増築した。 震災・戦災をまぬがれ、今なお江戸時代末期の面影をとどめている。 建物と店内は居酒屋として営業していた1970年(昭和45)ころの姿に復元している。 ● (E4)子宝湯(こだからゆ) 建築年代:1929年(昭和4) 所在地:足立区千住元町 東京の銭湯を代表する建物です。 神社仏閣を思わせる大型の唐破風(からはふ)や、玄関上の七福神の彫刻、脱衣所の折上格天 井など贅(ぜい)をつくした造りとなっています。 江戸の銭湯 江戸の銭湯は、徳川家康による町づくりとともに生まれ、たちまち各町に普及したらしい。 多くが蒸風呂であったが、「戸棚風呂」といわれる半浴半蒸気浴の銭湯もやがて現れるように なる湯のさめるのを防ぐため、湯を戸棚の中に置いた形である。 さらに、戸棚風呂の引き違いの戸のかわりに、石榴口(ざくろぐち)といわれるさまざまな装飾の ついた鴨居を床から床から1mほどのところにわたした風呂がつくられた。 この形式は1884年(明治17)に禁止されるが、場所によっては明治末期まで残っていたといわ れる銭湯は、落語にも登場するように庶民にとって身近な交流のの場であった。 とりわけ、江戸の銭湯では2階が設けられ、湯茶や菓子が出され、浄瑠璃語りや生花の会な どの場にもなった。 現在の銭湯 現在私たちが想像できる銭湯の形は明治10年ごろにさかのぼる。 東京神田にできた銭湯では、浴槽を床に沈めて湯をたっぷりと入れ、流し場の天井を高くし湯 気抜き窓を設けたことにより、浴室内は非常に明るく開放的になった。 改良風呂といわれる形式である。 タイルを貼った銭湯は大正期から、また、唐破風を特徴とする銭湯の玄関は、関東大震災後 急速に普及していった。 しかし近年では、新たな変化の時期をむかえている。 銭湯の始まり 今日私たちが「風呂に入る」といえば湯につかることを意味する。 しかし、古くから蒸気浴を意味する「風呂」と沐浴を意味する「湯」に分けられていた。 もともと入浴は、宗教活動や医療活動と結びつき、寺院などで始まった。 少量の水を利用して入浴できる蒸気浴が一般であったが、湯も鎌倉時代には始まっていた記 録がある。 銭湯の始まりも少なくとも鎌倉時代まで遡ることができる。 * (室町時代の風呂) 入浴者心得 東京都衛生局からの注意により公衆衛生のため、入浴する方は左の事がらを守ってください 1、浴槽に入る前、全身とくに下の方をよく洗うこと 1、浴槽の縁にはまたがらないこと 1、流し場にペタリと座らないこと、お子さんはなるべく持参の腰かけを使うこと 1、共同の腰かけを使うときはよく洗うこと 浴槽の湯で顔や髪を洗わないこと 手ぬぐい、タオルなどを浴槽内に持ちこまないこと 1、よっぱらって入浴したり騒いで他人に迷惑をかけないこと、なお伝染する病気をもって いる方、他人に迷惑を及ぼす者の入浴は法により禁ぜられております。 御客様 昭和27年6月 浴場主 東京都公衆浴場商業協同組合 入浴料金 1、大人 12才以上 金15円 1、中人 6才以上(小学生) 金12円 1、小人 5才以下(未就学児) 金6円 1、婦人髪洗料 金10円 昭和28年2月 東京都公衆浴場商業協同組合 ● (E5)仕立屋(したてや) 建築年代:1879年(明治12) 所在地:文京区向丘一丁目 寄贈者:小宮義璋 現在の文京区向丘に建てられた出桁造りの町屋である。 正面の格子や上げ下ろし式の摺上げ戸などに、江戸からの町屋の造りをうかがうことができる。 創建時には6畳間後ろに土蔵が付属していたが、昭和50年代に取り壊されたため、部屋部分の みの復元となった。 また、室内のガス燈は、ランプから電灯に移り変わる途上の明治後期から大正期にかけて一般 家庭の一部に普及したものである。 この家では、戦後は八百屋、昭和初期はテーラーであった。 今回は、建物の間取りを創建時に戻したこともあり、内部を大正期の仕立屋の仕事場と想定し、 再現することとした。 仕立屋は、特に店構えなどはせずに自宅を仕事場としていた。 親方のもとに弟子が住み込みで働くのが普通で、ここは親方と弟子の4人の仕事場を再現した ● (E14)万徳旅館(まんとくりょかん) 建築年代:江戸時代末期〜明治時代初期 所在地:青梅市西分町 寄贈者:浜中康男氏 旅館は、青梅市西分町の青梅街道の南側にあった旅館である。 建てられたのは、江戸時代末期から明治時代初期と推定される。 構造は、木造二階建て屋根の形は切妻、屋根材は、当初は杉皮葺き、一部とち葺きであるが、 今回の復元では、杉皮の上に波形鉄板を葺いている。 万徳旅館は、明治中期頃に2階部分を増築し、客室を増やしている。 敷地では、建物の奥に土蔵が付属していた。 また、1940年(昭和)ころ、青梅街道の拡張工事にともない南に2間ほどの曳き家を行ったという 万徳旅館は、内部の造作や、建具まわりに大きな改装が少なく、古い状態のままで平成5年頃 まで営業を続けていた。 創建当初に近い姿に、室内は旅館として営業していた1950年(昭和25)頃のようすを復元してい る。 今なお江戸時代の旅籠の面影をとどめている貴重な旅館である。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |