(画像をクリックすると、大きくなります) ● 岐阜城の歴史(一) 二階堂行政〜長井新左衛門尉 13世紀のはじめ(建仁のころ)、鎌倉幕府の政所令二階堂行政が、ここに砦を構えたのが築城のは じめです。 二階堂氏は鎌倉の二階堂に住み、氏を称えました。 その一門は関東から美濃・伊勢・薩摩などで豪族として栄えました。 美濃の場合、関の新長谷寺(吉田観音)を建てたのも二階堂氏です。 その後、行政の子孫はここに居城し、姓を稲葉氏と改ため稲葉山城といわれるようになりました。 戦国時代の動乱の中で、土岐・斎藤氏の一族が稲葉氏の砦遺構を利用して、ふたたび城を築き 城下町もできました。 大永5年(1525)、美濃国で内乱がおき、守護土岐氏と守護代斎藤氏の実権は、長井氏に移りま した。 稲葉山城も斎藤氏の一族が居城していましたが長井氏に追放され、長井新左衛門の居 城となりました。 新左衛門尉は斎藤道三の父親といわれ、大永から享禄年間(1521〜32)の史料に、名前がしば しばでてきます。 ● 岐阜城の歴史(二) 斎藤氏三代(道三・義龍・龍興) 斎藤道三が、灯油売り商人として、京都から美濃国へ下り、守護土岐頼芸の知遇を得て、美濃 一国を征服したことは、NHKの大河ドラマ「国盗り物語」などで有名です。 しかし、最近、発見された南近江の大名六角承禎書状から、道三の前半生は父の長井新左衛 門尉のことであり、後半生が道三の事蹟ということがわかりました。 道三は稲葉山城を要害化し、山の西麓に居館を建て、百曲通と七曲通に住人を集めて城下町 をつくりました。 また御園・岩倉・中川原に市場を設けて、商取り引きを盛んにしました 天文23年(1554)、道三は突然隠退して家督を子の新九郎利尚(義龍) に譲りましたが、やがて父子の対立が生じ、弘治2年(1556)の戦いで討死しました。 義龍は戦国大名として領国経営に力をそそぎましたが、道三死後、わずか6年で突然病死しあ とを幼い虎福丸(龍興)が継ぎました。 しかし、斎藤氏の勢威は弱まり、織田信長の攻勢が盛んになる時に、永禄7年(1564)、家臣の 竹中半兵衛重治らによって、稲葉山城が一時期占領される事件がおきました。 その後、竹中氏らは敗北し、稲葉山城は再び龍興の手に戻りましたが、この事件によって斎藤 氏は一挙に衰退し、ついに永禄10年(1567)、稲葉山城は織田信長に攻略され、龍興は城を捨 てて逃れました。 ● 岐阜城の歴史(三) 織田氏三代(信長・信忠・秀信) 永禄10年(永禄7年ともいう)、斎藤龍興を稲葉山城から追放した 信長は、井之口を「岐阜」を改称し、「麟」の字の花押とともに、「天下布武」の印判を使用しはじ め、岐阜の地を拠点として、天下統一をめざした城下町づくりに着手しました。 稲葉山城も岐阜城と呼ばれ、城の整備を大々的に行ない、斎藤氏の居館を壊して新しい館の 建設を始めます。 また城下町の繁栄を図るために、市場税の免除や座(中世商工民の組合)の特権を否定する「 楽市楽座」を推し進めた結果、信長の岐阜入城2年後に同地を訪れたポルトガルの宣教師ル イス・フロイスは、町の様子を「人口は八千ないし一万人、バビロンの混雑」のようだと、本国 へ報告しています。 天正3年(1575)、信長は岐阜城を長男の信忠に譲り、翌4年に安土城を築いて、ここに移りま した。 天下統一へ大きな前進をしたのですが、天正10年(1582)、明智光秀の謀反による「本能寺の 変」で、信忠とともに京都で討死しました。 その後、文禄元年(1592)、豊臣秀吉は信長の孫秀信を岐阜城主に封じました。 しかし、慶長5年(1600)関ヶ原合戦で、秀信は家臣の反対を押しきって西軍に味方したため、 東軍に攻められて8月23日落城、秀信は降伏し、高野山へ送られて同地で死去しました。 ● 岐阜城歴代城主 1 二階堂行政(ゆきまさ/生歿年不詳) 鎌倉時代前期の鎌倉幕府吏僚。 二階堂氏の祖。 父は藤原南家流の行遠。 母は熱田神宮司季範の妹という。 行政は源頼朝に早くから仕え、鎌倉幕府の文吏として幕政に参画する。 頼朝が公文所(後に政所)を開設すると、行政は公文所寄人となり、ついで政所令となる。 以後、二階堂氏は代々政所執事として幕府の財政事務を所管することとなる。 頼朝が義経・泰衡らの怨霊をなだめるため永福寺の建立を発願すると、建久2年(1191)行政 はその造営奉行に任じらる。 また行政は、建仁元年(1201)に稲葉山に砦を築き、京都への押さえとする。 行政の一門は、関東から美濃国のほか陸奥・出羽・駿河・伊勢に及び、美作・安芸・伊予・薩 摩などにも豪族として繁栄した。 2 佐藤朝光(生歿年不詳) 二階堂行政の女婿子。 行政の後を受けて稲葉山城を守る。 3 伊賀光宗(生歿年不詳) 佐藤朝光の次男。 次郎左衛門と称し、父の後を受けて稲葉山城を守る。 その後、式部丞と称し鎌倉幕府の評定衆・引付頭となるが幕府に疎まれ信濃国に配流される 兄の左衛門光季は、承久年中関東代官に任ぜられ、上洛して京都を守護する。 都を守護する。 4 稲葉光資(みつすけ 生歿年不詳) 伊賀光宗の弟。 三郎左衛門尉を称する。 兄の伊賀光宗が信濃国へ配流された後をうけて稲葉山城を守り、氏名の「伊賀」を居城に因 んで「稲葉」と改める。 5 二階堂行藤(ゆきふじ 1246〜1302) 鎌倉時代末期の武将で二階堂行有の子。 正元元年(1259)稲葉山城主となる。 長じて永仁元年(1293)幕府政所執事となる。 正幕府が大覚寺統から抗議を受けた時、行藤は上洛して陳謝の意を表す使者の大任を勤め める。 行藤は稲葉山城主として関郷周辺に領地をもっていた関係もあり、娘の理趣尼ととも に新長谷寺の再興に尽力する。 6 斎藤利永(としなが ?〜1460) 斎藤氏は北面の武士として仕えた家柄で、斎藤帯刀左衛門尉親類が承久2年(1220)美濃国 目代に補せられてから美濃国各務郡に居住するようになる。 利永は美濃国守護土岐持益の執権として、二階堂行藤が去ったあと長く城郭が失われてた 稲葉山城を修築して居城とする。 康正2年(1456)持益の子持兼が早したため後継者争いが起こったが、利永は土岐氏の同族 者から土岐成頼を迎え、敵対者を圧えてこの争いを解決し、守護家を守る。 7 斎藤妙椿(みょうちん 1411〜1480) 斎藤利永の弟。 応仁の乱が起こると、美濃国守護土岐成頼は兵8,000人を率いて京都に出陣し、西軍の山名 氏に味方して戦うこと11年に及んだ。 その間、妙椿は稲葉山城に拠つてよく美濃国内を治める。 妙椿は和歌をよくし、一条兼良とも深い親交を結んでいる。 また妙椿は群上郡篠脇城主東常縁が関東に出陣している 留守の間に奪い取った地を、常縁が詠んだ和歌に感銘して返還した逸話は有名である。 常在寺や瑞龍寺を建立する。 8 長井新左衛門尉(しんざえもんのじょう 生歿年不詳) 斎藤道三の父。 山城国出身。 日蓮宗妙覚寺と深い関係を持ち、山崎屋と号して油売りを業として全国を渡り歩いたと伝えら れる。 いずれの頃からか美濃国守護土岐氏の老臣斎藤利安の門に出入りし、子の道三と共に利安 の家臣西村家を奪い取ったと言う。 9 斎藤道三(1494〜1556) 戦国大名。名は利政、のち秀龍。晩年に入道して道三と号す美濃国守護土岐氏の老臣斎藤 利安の家臣西村家を父とともに奪い取り、次いで享禄3年(1530)には利安を殺害して新九郎 利政と名乗る。 道三は天文7年(1538)守護代斎藤家を奪い取り、天文11年に守護土岐頼芸を追い、美濃国 を横領して稲葉山城を修築して入城する。 弘治2年(1556)4月20日、道三は長男の義龍と長良川で戦い敗死する。 10 斎藤義龍(1527〜1561) 斎藤道三の子。 母三芳野は美濃国守護土岐頼芸の側室で義龍を宿して道三に嫁して後に生んだと言われる はじめ新九郎高政と称する。 長じて父道三と不和となり、弘治元年(1555)叔父長井道利と謀って道三に背き、翌年長良川 で戦って父を打ち破り、美濃国を制圧して稲葉山城主となる。 永禄2年(1559)から織田信長と争ったが、病死する。 11 斎藤龍興(たつおき 1548〜1573) 斎藤道三の孫。 父義龍の後をうけて稲葉山城主となる。 尾張国の織田信長と連戦し、次第に利を失い永禄10年(1567)稲葉山城を奪われる。 越前国の朝倉氏に身を寄せたが、朝倉氏の滅亡と運命を共にする。 12 織田信長(1534〜1582) 織田信秀の子、 幼名吉法師。 天文15年(1546)元服して信長を名乗る。 父の死後、尾張半国を統一する。 永禄3年(1560)駿河国の今川義元を桶狭間に迎え撃って敗死させ、三河国の徳川家康と同 盟を結ぶ。 その後、尾張国を統一して美濃に進出し、永禄10年に斎藤龍興を破り、清洲城から稲葉山 城に移る。 信長は楽市楽座を保護し、稲葉山を金華山に、井ノ口を岐阜と改め、「天下布武」の朱印を 用いるなど、岐阜城を天下統一の本拠地とする。 天正10年(1582)明智光秀の謀反のより京都本能寺で自害する。 13 織田信忠(1557〜1582) 織田信長の長男。 信長に従って各地に転戦する。 天正4年(1576)信長が岐阜城から安土城に移ると、信忠が岐阜城主となる。 天正10年、甲斐国に攻め入って武田勝頼を討ち滅ばす。 同年の本能寺の変に際して京都妙覚寺に籠もり、明智軍と奮戦の末に自刃する。 14 神戸信孝(1556〜1583) 織田信長の三男。 伊勢国神戸氏の養子となる。 天正10年(1582)本能寺の変後、羽柴秀吉とともに明智光秀を破って美濃国を領し岐阜城主 をなる。 秀吉が柴田勝家と争うや信孝は勝家と結び、兄信雄・秀吉と抗争する。 同11年勝家が敗死したので信雄に降り、尾張知多郡内海に逃れ、「昔より 主をうつみの 野間なれば 報いを待てや 羽柴ちくぜん」の世辞を残して自害する。 15 池田元助(もとすけ 1559〜1584) 池田恒興(信輝)の嫡子。 恒興・元助の父子は、織田信長に臣従する。 本能寺の変後、羽柴秀吉に与力する。 その功により恒興は大垣城主に、元助は岐阜城主に、弟の信輝(後に輝政と改名)は池尻城 主となる。 天正12年(1584)小牧長久手の戦いで恒興・元助は織田信雄の犬山城を占領したが、長久手 で父子ともに討ち死する。 16 池田輝政(1564〜1613) 池田恒興の次男。織田信長・豊臣秀吉に仕える。 天正12年(1584)長久手の戦いで父の恒興と兄の元助が戦死したため輝政は遺領を継ぎ美 濃国内で十万石を領して岐阜城主となる。 後に三河国吉田に移る。 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦には徳川方に属して、岐阜城を攻め落とす。 17 豊臣秀勝(1569〜1592) 豊臣秀吉の姉の子で、秀吉の養子となる。 丹波亀山城主・甲府城主を経て、天正19年(1591)3月岐阜城主となる。 秀勝は翌文禄元年6月、兵3000人を率いて細川忠興とともに朝鮮半島へ出兵する。 在陣3ヶ月で戦地で病死する。 18 織田秀信(1580〜1605) 織田信忠の子で、信長の孫にあたる。 岐阜城で生まれ、幼名を三法師という。 天正10年(1582)本能寺の変直後、前田玄以は信忠の遺命により三法師を岐阜城から清洲 城に移して守る。 清洲会議の結果、信長の後継者として安土城に移ったが、天正12年岐阜城に戻る。 文禄元年(1592)豊臣秀勝が陣歿したため秀信が岐阜城主となり、朝鮮半島へ出陣する。 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦には、秀信は石田三成に味方して西軍に属したが、8月23日 東軍の池田輝政・福島正則に攻められて開城する。 合戦後、高野山に入り剃髪する。 慶長10年高野山において歿する。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |