(画像をクリックすると、大きくなります) << 二の丸門跡−→閻魔堂−→岐阜城題目塚−→岐阜地方気象台金華山分室 −→金銘水−→お城時計−→方向標 >> ● 二の丸門跡を入ります。 天守台にそびえ建つ天守閣の南西一段下に二の丸が築かれ、さらに一段下に二の丸門が建って いた。 周囲を石垣で高く積みあげ、守りを固めている。 関ヶ原前哨戦となった慶長5年(1600)8月23日の岐阜城攻略戦では、二の丸門で激戦が繰り ひろげられた。 この時、門内にあった煙硝蔵に火がついて大爆発し、夜空をこがした火災が美濃・尾張国内に岐 阜城の落城を知らしめるところとなった。 ● 閻魔堂 入試必勝・学力向上・商売繁盛・家内安全・交通安全・火盗難除などのご利益があるそうです。 ● 岐阜城題目塚 岐阜城は斎藤道三以来、織田信長・池田輝政・織田秀信等、幾多英雄の興亡の地として多数の 戦没者を出しているのであります。 これらの霊を慰めるためいつのころか無名の信者によって、南無妙法蓮華経のお題目碑が建て られたのであります。 御題目の両横には涅槃経の「諸行無常 是生滅法 生滅々巳 寂滅為楽」の四句が書いてあり ます。 又側面には、「此の寶塔に禮拜する人は 悪に迷ふ事を止む」と書いてあります。 (建立の年代は書いてありません) 今回これを、岐阜城題目塚と命名して、悪魔退散と降魔の塔として東海地方における鎮守の霊 地として併せて今次大東亜戦争における多数の英霊を合祀し世界の平和人類の幸福を祈るた め百万人の合力によって毎年2回(春秋)大供養が行われるのであります。 「この塔を礼拝する者は悪の迷いがたちどころに退散し必ず安心と幸福とをることができる」ので 霊験があらたかであると伝えられている。 斎藤道三・織田信長は、ともに日蓮信者である。 ● 直進し階段を登ると岐阜城へ。 右側の道は、二の丸赤橋を渡っていくと資料館経由で岐阜城へ。 * (岐阜城方面)・・・(二の丸赤橋方面) ● 階段を登っていくと左側に「岐阜地方気象台金華山分室」の建物が。 * (右画像/岐阜地方気象台金華山分室) ● 岐阜地方気象台金華山分室の脇の標識「←戦国時代の軍用井戸20m 金銘水」に従い階段をくだります。 ● 岐阜城の井戸(金銘水) 濃尾平野の北端に独立してそびえたつ稲葉山(金華山)は、かつて「一石山」と呼ばれたように全山 が一つの岩塊で成り立っている。 山上に天守閣をはじめ多くの櫓や蔵と郭を構え、番兵を配した要害堅固な岐阜城であったが籠城 に備えた飲み水の確保は非常に困難であった。 湧水は一滴もないため雨水と岩の間から僅かにしみでてくる水を溜める井戸を岩塊に掘削している 二の丸を挟んで西側に3ヶ所、東側に1ヶ所の井戸がある。 この井戸は、二の丸の西に位置する軍用井戸で「金銘水」と名付けられている。 岐阜市 * (右画像/金銘水) ● 気象台金華山分室まで戻り、岐阜城に向かいます。 ● 岐阜城入口前に、「お城時計」があります。 お城時計 大名時計・和時計ともいう。 西洋の機械時計が日本に入ったのは、フランシスコ・ザビエルが周防国(現在の山口県) の大内氏に献上したのが最初である。 当時の時計は壁掛け式であり、操作も複雑であった。 このため日本の時計師は工夫と改良を重ね、日本独自の十二支を目盛りとする櫓時計 を作りあげ、その精密さは世界一であった。 明治5年(1872)11月、太陰暦が太陽暦に改められ、和時計は制作されなくなった。 岐阜城では、お城時計と称された江戸時代前期の大型櫓時計を所蔵・展示している。 ● 方向標 標高328.9m ● 岐阜城内部へ 岐阜城観覧のご案内 開館時間(年中無休) 3月16日〜5月11日 9:30〜17:30 5月12日〜10月16日 8:30〜17:30 10月17日〜 3月15日 9:30〜16:30 入場料(岐阜城資料館も含む) 大人(16歳以上)・・ 200円 小人(4歳以上16歳未満)・・100円 団体割引・・・・30人以上2割引き 次の方は、入場料を無料にしますので、手帳等をご提示ください。 1.身体障害者手帳・精神障害者保険福祉手帳の交付を受けている方及びその介護の方 及びその介護の方 2.70歳以上の方 3.家庭の日(毎月第3日曜日)に入場する中学生以下の方 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |