(6)岐阜城 2階(1)

                        


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    * (織田信長像)

                         


  ● 濃姫 天文4年(1535)?〜慶長17年(1612年)?  斎藤道三の娘、織田信長の正室。
        「濃姫」という通称は「美濃国出身の高貴な女性」という意味であり、「美濃国諸旧記」などでは帰
        蝶とされる。
        濃姫の史料は極めて乏しく、その実像には謎が多い。
        永禄12年(1569)の「言継卿記」に斎藤家親族の「信長本妻」の記述がある。
        道三の息女であり、土岐氏の傍流明智氏の血を引く濃姫の婿である信長こそ正統な美濃の後継
        者であり、円滑な美濃支配と後継者の正統性を強調できると考えられた。

    * (打ち掛け)・・・(濃姫像)・・・(織田信長騎乗図)

                                     


  ● 織田信忠 弘治3年(1557年)〜天正10年(1582年)  享年26歳。
        織田信長の嫡子。  美濃国岐阜城主。  領土は尾張・美濃。
           元亀3年(1572)正月に弟の信雄・信孝とともに岐阜城で元服して勘九郎信重と名乗り、7月に
           は信長に従って浅井攻めに初陣した。
           天正2年(1574年)、信忠と改めた。
           翌3年11月、信長から正式に家督と尾張・美濃を与えられ、岐阜を居城とする。
           同5年10月には松永久秀討伐の功績により、従三位左中将に叙任。
           これ以後、順次信忠は信長に代わって軍団を指揮することが多くなり、同7年の荒木村重征
           伐や、同10年の甲斐遠征には一月足らずで武田氏を討伐するなど、その手腕が大いに発揮
            された。
           本能寺の変時には寄宿先の妙覚寺から二条新御所に立て籠もるが明智光秀軍の猛攻に遭
           って自刃した。

    * (道三・信長の岐阜城)・・・(織田信忠像)

                             


  ● 織田信忠判物(複製)
       今尾市儀、 如前々可相立、 聊不可  有異儀者也
         天正八年  信忠(花押) 十月 日
           今尾町(現岐阜県海津郡平田町)の市については、従来どおり開くことに、少しも異議はないこ
           とを信忠が認めたもの。
           信長は、天正4年(1576)11月28日、家督を嫡男の信忠に譲り岐阜城主として美濃・尾張両国
           を支配させた。
           天正8年(1580)、信忠の美濃国支配は、一段と本格化したことがうかがえる。

    * (右画像 織田信忠判物/複製)

                  


  ● 織田秀信 天正8年(1580)〜慶長10年(1605年)
        天正10年(1582年)本能寺の変の際、父・信忠の居城岐阜城に在城していたが、保護されて清洲城
        へと避難した。
        同年、清洲会議において羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の周旋により、わずか3歳で織田家の家督を相
        続。
        天正16年(1588年)、9歳で岐阜に入って元服し三郎秀信と名乗り、従四位下侍従を任官した。
        文禄元年(1592年)9月9日、豊臣秀勝が没すると秀吉の計らいで美濃国岐阜13万石を領有する。
        関ヶ原の合戦の前哨戦(慶長5年(1600年))において西軍石田方に組みし、東軍の福島正則・池田輝
        政等の攻撃を受け敗北。
        追い詰められた秀信は、援軍を要請する一方、岐阜城に籠城した。
        しかし援軍は取りやめとなったうえ、元々岐阜城は水の手に乏しく籠城向きの城でなく、東軍にかつて
        岐阜城だった池田輝政がいたことや兵力の不足もあって、秀信は弟・秀則と共に自刃しようとしたが、
        輝政の説得で降伏開城した。

    * (右画像/織田秀信像)

                             


  ● 織田信雄判物(複製)
       領知分都合九拾六貫余、名田相加、任先判旨。全所務不可有相違之状如件
          天正拾年八月九日  信雄(花押)
       伏屋市兵衛殿
          織田信雄は信長の二男である。
          本能寺の変直後に、伏屋市兵衛に対して、先判どおりに知行を与えたもので、信雄の花押は木
          版による。
          伏屋氏は、尾張国葉栗郡伏屋(現岐阜県羽島郡岐南町)の在地領主である。
          なお、伏屋の地は、天正14年(1586)の木曽川の流路変更により、美濃国に編入された。

                           


  ● 織田信孝黒印状(複製)
       扶助分
         ふせや方 1、八拾貫文   かっけ山分
         かわの方 1、五十貫文   岩間分
           同所  1、五十貫文   林分
           同所  1、四十八貫文  ならづ方
                  (二百脱力)
                都合 弐拾八貫文
       右施行了、全可領知候也
             天正拾年十一月 日  信雄(黒印)  ○印文「弌剣平天下」
        伏屋一兵衛とのへ
           織田信孝は信長の三男、この時、岐阜城主であった。
           この三か月前には、信雄から同じ伏屋市兵衛に所領が与えられている。
           信孝・信雄の二人が、伏屋氏を自陣に組み入れようとしていることがうかがわれる。

                          


  ● 岐阜城天守閣出土品
        岐阜城跡からは、金の鯱、五三の桐、桃の実、左巻きの三ッ巴、片側布目等の瓦の破片が出土
        している。
        金の鯱からは、岐阜城に天守閣があり、金色さん然として金華山頂に君臨していたことが推察さ
        れる。
        桃の実ほの瓦は当時武将が縁起のよい表象として好んだものであり、五三の桐は足利幕府から
        拝領した紋ともいい、また織田信長の家紋だともいわれている。
        片側布目の瓦は徳川初期まで焼かれていた。
        日本の瓦は信長以前は厚手であったが、信長時代に中国から瓦師が来て今日の様な薄手の瓦
        の製造が日本に伝えられたとされる。

                                 


     * 鬼瓦・軒丸瓦・軒平瓦(岐阜城天守閣付近出土)

                  


                           


     * 軒丸瓦・軒平瓦(岐阜城天守閣付近出土)
          平成16年10月24日の台風23号により、岐阜城天守閣北側で倒木あり。
          その際、倒木の根本から出土。

                


     * 文様瓦

                  


                           


  ● 京都南蛮礼拝堂の織田信長像

                                


                  


                          (全景は、パノラマでご覧ください)
 

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