(画像をクリックすると、大きくなります) << 岐阜城 2階(2) >> ● 斎藤妙椿 応永18年(1411年)〜文明12年(1480年) 美濃守護代として、応仁文明の乱に守護土岐成頼在洛10年の間、その兵站の確保に努め隣境の 諸強の侵入を許さず、よく留守役の大任を果たした。 土岐氏は初め東軍細川氏に従ったが後に西軍山名氏に味方した。 東軍側に味方していた郡上郡大和村牧の東常縁の篠脇城を占領し、不和郡関ヶ原町今須の長江 氏を滅ぼした。 後日東常縁の和歌に感動して篠脇城を東氏に返還した。 文武両道をわきまえた立派な武将である。 ● 斎藤正義 永正13年(1516年)〜天文17年(1548年) はじめ比叡山横川専心院の修行僧であったが、武事を好み、美濃に下って斎藤道三の食客となっ ていた。 そして道三と敵対する土岐頼純方との合戦において活躍し、道三の猶子に迎えられ、斎藤姓を与 えられたという。 天文6年(1537年)可児郡兼山城主となる。 戦国武将の荒々しい風貌を備え、力量百人力といわれた。 * (斎藤妙椿)・・・(斎藤正義) ● 斎藤道三公 生年不詳〜弘治2年(1556年) 斎藤道三は下克上大名の典型であり、僧侶から油商人を経てついに戦国大名にまで成り上がっ た人物だとされてきた。 近年は古文書「六角承禎条書」によって、美濃の国盗りは道三一代のものではなく、父・長井新 左衛門尉との二代にわたるものとする説が有力となっている。 祖胡散は、天文年間(1532年〜1554年)には稲葉山城の修築を行ない入城したとされる。 また、のちに娘・濃姫を嫁がせ織田信長と姻戚となった。 天文23年(1554年)、家督を子・義龍へ譲り、常在寺で剃髪入道を遂げて道三と号し鷺山城に隠 居した弘治2年(1556年)、長良川の戦いで子・義龍に敗北し戦死。 その首塚が道三塚として今に残る。 ● 二階堂行藤画像 ● 斎藤義龍 大永7年(1527年)〜永禄4年(1561年) 斎藤道三の長子として生まれたが、実は道三の子ではなく道三に亡ばされた土岐頼芸の子供で あったため親子の仲が悪かった。 義龍は身長6.3尺(1.9m)体重30貫(112.5kg)に近く、力は30人力あったといわれ武芸を好みいわゆ る剛勇型の武将で父道三を亡ぼすに当たり姓名を一色左京太夫義龍と改め、また茫可とも号した 惜しむらくは35歳で卒中で倒れた。 ● 池田元助 永禄2年(1559年)〜天正12年(1584年) 享年26歳。 之助とも言う(崩した字が「元」とも「之」ともつかないため)。 幼少期から織田信長に仕える。 本能寺の変後、父・池田恒興に従い羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の家臣となった。 天正11年(1583年)、父・恒興が美濃国大垣城主となると、岐阜城主となった。 同12年4月の小牧・長久手の戦いで徳川家康の急襲に遭い、父・恒興とともに戦死。 ● 池田輝政 永禄7年(1565年)〜慶長18年(1613) 享年50歳。 美濃国池尻城、大垣城、岐阜城、三河国吉田城主を経て播磨国姫路藩主となり、姫路城を現在 残る姿に大規模に修築したことで知られる。 織田信長公の重臣・池田恒興の次男、元助の弟として尾張国清洲(現・愛知県清洲市)に生まれ た。 本能寺の変で信長が明智光秀に殺されると、父兄と共に羽柴秀吉(のとの豊臣秀吉)に仕えた。 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、父兄が討死したため家督を継ぎ、岐阜城主13万石 を領する。 慶長3年(1598年)、秀吉が没すると徳川家康に接近。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川方に与し、前哨戦となった岐阜城攻略にも参加し、福 島正則とともに功を挙げた(岐阜城の戦い)。 ● 竹中重治(半兵衛) 天文13年(1544年)〜天正7年(1579年) 不破郡岩手山城主。 大野郡大御堂(大野町)出身。 もとは斎藤龍興に仕えていた。 永禄3年(1560年)、竹中家を継ぐ。 同7年、国主・龍興の仕業を正そうと、義父・安藤守就と謀り、稲葉山城を占領した。 それを知った信長に、城を譲るよう交渉されるが、その申し出を断り、返答後城を達興に返した。 達興没落の同10年頃、軍略の才を買われ、織田信長に帰属し、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の与 力として付属される。 天正5年(1577年)10月、秀吉の播磨入国に従い、同年11月、黒田考高とともに宇喜多氏の属城 福岡野を攻撃する。 その後も秀吉に従って摂津・播磨・備前で活躍。 同7年6月三木城攻めの陣中で病死した。 ● 明智光秀 生年不詳〜天正10年(1582年) 近江坂本・丹波亀山城主。 領土は丹波・近江志賀郡。 光秀は、可児郡明智城主・明智光綱の子で、美濃・土岐氏の一族であった。 足利義昭に仕え、永禄11年(1568年)義昭を奉じた織田信長の上洛に伴い、信長にも臣従するこ とになった。 義昭や公家衆との交渉にあたり、京都周辺の政務を担当。 元亀2年(1571年)近江志賀郡を与えられ坂本に築城した。 天正3年(1575年)6月から丹波の攻略に着手し、同8年8月には、その功によって丹波を領国とし て与えられ亀山を居城とした。 同10年の甲州武田征伐に従軍した後、上洛した徳川家康の接待を務めたが、急遽中国への遠 征を命令された。 6月1日亀山城を出陣するが、翌2日未明、京都本能寺に信長を急襲した。 山崎の合戦で羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)らに敗れ、小栗栖で死去。 京都本能寺の変の前日に作った俳句「ときは今・・・」の「とき」は美濃・土岐氏が今や天下を取る という意味であるとされている。 ● 織田信長公と稲葉一鉄 一鉄は安八郡曽根城主で、美濃三人衆の一人で文武両道の立派な大将であった。 信長は一鉄が諜叛を企んでいると疑い、茶室に招き殺そうとした。 茶室の床には「雲は秦嶺に横たわって・・・」の句がかかっていた。 一鉄がこれを朗々と読んだため信長は驚き、このように文学を心得た立派な武将を殺すのは惜し いと思って止めたとされる。 学問を知っていて命拾いした良い例として有名である。 * (稲葉一鉄判物/複製) * (竹中重治(半兵衛)禁制/複製) ● 三階へ。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |