(2)聴鐘庵→時報鐘→太鼓門櫓

             


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   ● 時報鐘及び聴鐘庵
        この鐘は、12代藩主井伊直亮の弘化元年(1844年)に鋳造したもので、当初鐘の丸にあった鐘の
        音が城下の北の隅にとどかなかったので現在地に移した。
        現在は午前6時、9時、正午、3時、6時と1日5回ついている。
        大老井伊直弼は禅の精神と相通ずる茶道にひかれ自らも「宗観/むねみ」と号し修行をつづけた。
        大老の著「茶の湯一会集」に書かれている「一期一会」の茶道精神は有名である。
        この精神をしのび、時報鐘の管理棟を改造した聴鐘庵で薄茶の接待をいたしております。

    * (聴鐘庵)

                         


     日本の音風景百選
        彦根城の時報鐘と虫の音
          虫や渓流、鐘や祭など地域で愛されている音の聞こえる風景を残そうと、環境庁が平成8年6月
          5日「日本の音風景百選」を決め、彦根市からは「彦根城の時報鐘と虫の音」が選ばれました。
          彦根城内から3時間ごとに時を告げる時報鐘の音、城山の夏の夕暮れ時のヒグラシの蝉時雨/
          せみしぐれ、玄宮園での鈴虫、松虫の鳴き声、将来に残したい音風景です。

    * (時報鐘)

                         


            


   ● 太鼓門櫓及び続櫓(重要文化財)桃山時代 昭和26年9月22日指定
        本丸の表口を固める櫓門。
        築城時に他の城から当初に移築されてきた建物です。
        櫓門としては珍しく、東側の壁が無く、柱の間に高欄をつけ廊下としています。
        登城合図用の太鼓の音を響かせるために考えられたのではないかといわれています。

                             


                  


    * (振り返ると)

                         


   ● 階段をのぼり本丸広場へ。

                         


   ●  太鼓門櫓の中へ。

             


                       


     佐和山城から彦根城へ
        慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原合戦から2日後、小早川秀秋ら関ヶ原の寝返り組を主力と
        する部隊が佐和山城を包囲しました。
        城主石田三成は関ヶ原に敗れて湖北へ逃走中であり、このとき佐和山城には三成の父正嗣ぐを主
        将に兄正澄らが布陣していました。
        佐和山城の守りは固く、執拗な攻撃によく耐えましたが、兵力の違いは如何ともし難く、およそ1日で
        佐和山城は落城しました。
        関ヶ原合戦後の論功行賞により佐和山城を与えられたのは、彦根の初代藩主となる井伊直政でした
        慶長6年(1601)正月、直政は上野国高崎城(群馬県高崎市)より佐和山城に入ります。
        ところが直政は、関ヶ原合戦で受けた鉄砲傷が悪化して翌年死去。
        直政より後事を託された家老木俣守勝は、城の移築計画を徳川家康に計ります。
        佐和山・彦根山・磯山(米原市)の三山を候補に、彦根山への移築が決定しました。

         


     彦根城の築城
         慶長9年(1604)7月1日、佐和山城の西方約2kmの彦根山において、新たな築城工事が槌音高く
         始まりました。
         彦根城の築城は、およそ20年を要しました。
         前期工事は、本丸や鐘の丸などの城郭主要部が築かれました。
         幕府から6人の奉行が派遣され、近隣諸国の大名に助役が命ぜられるなど、天下普請の様相を
         呈していました。
         豊臣恩顧の大名が多い西国への抑えの拠点と意識され、完成が急がれたのです。
         そのため築城に必要な材木や石材を周辺の古城・廃寺などから集めました。
         天守そのものが大津城天守を移築したと伝えています。
         彦根城はリサイクルの城でした。
         慶長19年(1614)、豊臣勢力の一掃を策した大阪冬の陣が、また翌元和元年には夏の陣が勃発
         します。
         彦根城の築城は一時的な中断をよぎなくされました。
         大阪の陣に出陣し活躍するのは、病弱の嫡男直継に代わった弟の直孝でした。
         大阪の陣後は、この直孝によって後期工事が再開されます。
         後期工事は彦根藩単独で実施され、城下町にいたる城郭の全容がほぼ完成しました。

                                     


     彦根城の2つの正面
        完成した彦根城には2つの正面がありました。
        大手門と表門です。
        2つの門は、現在では石垣などしか残っていませんが、かつては内堀に接して外門の高麗門があり
        その内を鈎の手に曲げて内門の櫓門が築かれていました。
        門の形式としては最強の枡形で、彦根城の正面にふさわしい重厚な構えです。
        なぜ彦根城には2つの正面が築かれたのでしょう。
        それは築城20年間に彦根城の縄張りが変更になった結果と考えられています。
        当初は大手門が正面でした。
        大手門は城の西に位置し、巡礼街道(下街道)に接続しています。
        巡礼街道は、築城以前の彦根山にあった彦根寺への巡礼者の道として発達していました。
        この街道沿いに安土城や近江八藩城なども築城され、これらの城下をつなぐ街道として整備された
        のでしょう。
        彦根城の築城当初、城の正面が巡礼街道に向かって開かれたのは、いわば当然でした。
        ところが、やがて五街道の一つとして中山道の整備が本格化します。
        彦根城下と鳥居本・高宮の両宿をつなぐ道も整備され、城下に街道を引き込むように伝馬町も生ま
        れました。
        こうして南東の中山道に開く表門が、彦根城の正面に変容していったと考えられています。

              


     彦根城の縄張り
        彦根城を縄張り、つまり城本来の軍事的な防衛施設として見ると、彦根城の優れた機能が理解で
        きます。
        まず本丸にいたる前後には「大堀切」があります。
        大堀切は、山の尾根を断ち切るように築かれた大きな空堀です。
        表方面は天秤櫓の外に、また裏手は西の丸三重櫓の外に築かれています。
        現在は両堀切とも橋が架かっていますが、この橋がなければ高い石垣を登らないと本丸方面に侵
        入できません。
        一方彦根城には、全国的にも珍しい「登り石垣」が5個所に存在します。
        登り石垣は、文字どおり山の斜面を登るように築かれた石垣です。
        斜面を移動する敵の動きを阻止する目的で築かれました。
        かつてこの石垣の上には、さらに瓦壁が乗っていたようです。
        彦根城は、このような「大堀切」や「 り石垣」が、櫓・門・堀などとも巧妙に連結して、たいへん発達
        した縄張りとなっていましたが、築城後まもなく 来した太平の時代のため、皮肉なことに一度も戦を
        経験することはありませんでした。
        長く続いた平和な江戸時代、彦根城は今日と同様にシンボルとしての役割を担い、天守をはじめ櫓
        などの建物は、彦根藩の各部署が管理する「ものおき」に変わりました。

              


     彦根の城下町
        彦根の城下町は、大規模な土木工事によって計画的に造られたまちです。
        計画当初、城下は多くの淵や沼のある湿潤な土地が広がっていました。
        そのため松原内湖に注いでいた芹川(善利川/せりかわ)を約2kmにわたって付け替えて一帯の排
        水を良くし、琵琶湖に直流させました。
        また現在の尾末町にあった尾末山を全山切り崩して、周辺の低地を埋め立てたと伝えています。
        こうした大土木工事により、城下町の計画的な地割が可能となりました。
        完成した彦根城の城下町は、3重の堀によって4つに区画されていました。
        内堀の内側の第一郭は、天守を中心として各櫓に囲まれた丘陵部分と藩庁であり表御殿(現在の
        彦根城博物館)などから成っています。
        内堀と中堀に囲まれた下屋敷である槻御殿(けやきごてん現在の玄宮園・楽々園)と家老など千石
        以上の重臣の邸宅が広がっています。
        中堀との間の第三郭は「内町」と称して武家屋敷と町屋が、また外堀の外の第四郭である「外町」
        には町屋と足軽の組屋敷などがありました。
        内町・外町ともに武士・町人が合わせて居住していますが、居住地は明確に区分されており、魚屋
        町桶屋町・職人町など職業による分化配置が見られました。
        彦根藩の足軽は、「善利組」など7組で構成されていましたが、第四郭つまり城下町のもっとも外側
        に、城下を取り囲むように屋敷を連ねて、平時においても彦根城とその城下町を守備する役割を担
        っていたのです。

                  


     太鼓門櫓/重要文化財
        本丸にそびえる天守を目の前にした最後の門が重要文化財の太鼓門櫓です。
        門櫓の南には「く」の字に曲がった続櫓が付設されています。
        この門櫓は、建物の背面の東壁面が開放され、柱間に高欄を付して1間通りを廊下にしています。
        櫓にはたいへん稀な例で、一説には名称となっている「太鼓」が櫓の中に置かれ、その太鼓の音
        が広く響くための工夫とも考えられていますが、明確ではありません。
        太鼓門櫓も、天秤櫓・西の丸三重櫓そして天守などと同様に、築城時にほかの場所から移築され
        た建物です。
        長い間、太鼓門櫓は、彦根城築城以前に彦根山の上にあった彦根寺の山門を移築したものと考え
        られてきました。
        彦根寺は観音信 の  く知られていました。
        彦根山に向かって西に伸びる「巡礼街道」は、かつて、この彦根寺へ都人がこぞって参詣したため
        付けられた名称ですが、こうした観音霊場では納札を寺の建てたどに打ち付ける習わしが古くから
        あります。
        太鼓門櫓には門の柱に古く鍵穴がたくさん残っており、その鍵穴を納札を打ち付けた痕跡と考えて
        彦根寺山門の移築説が生まれ、広く流布していたようです。
        ところがこのせつは、昭和31年から32年にかけて行われた太鼓門櫓の解体修理工事によって否
        定されました。
        解体修理に伴って実施された建物部材調査により、移築前の建物もまたどこかの城の城門であっ
        たことが判明したのです。
        しかもかつての城門は規模が大きく、それを縮小して今日の太鼓門櫓としていました。
        ただ、どちらの城の城門だったのかは、今も謎のままです。

                        


     境目の城「佐和山城」
        佐和山城の歴史は古く、鎌倉時代初期に近江源氏・佐々木定綱の六男時綱が、佐和山の麓に館
        を備えたのが始まりと伝えます。
        その後、佐々木氏は湖南の六角氏と湖北の京極氏に分かれて対立。
        佐和山城は両勢力の境目の城として攻防が繰り返されました。
        やがて湖北では京極氏に代わって浅井氏が覇権を確立し、湖南の六角氏との間で佐和山城争奪
        戦が展開されることになります。
        信長・秀吉の時代になっても、佐和山城は近江の要衝を守る城として重視されました。
        信長は佐和山城に重臣の丹羽長秀を配し、安土城築城までの間、佐和山城が安土城の機能を維
        持しました。
        秀吉の代も、堀秀政・堀尾吉晴そして五奉行筆頭の石田三成の入城と、佐和山城に重きを置く姿
        勢は変わりませんでした。
        この間、佐和山城はしだいに整備され、三成の時代には、山上に本丸以下、西の丸、三の丸、太
        鼓丸、法華丸などが連なり、山下には東山道に面して大手門が開き、二重に巡らされた堀の内に
        は侍屋敷・足軽屋敷・町屋などの城下町がすでに形成されていました。

              


                         


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                               ● (入口へ) ●

   

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