(画像をクリックすると、大きくなります) << 天守閣 1 >> (全景は、パノラマでご覧ください) ● 天守閣内部へ。 * (彦根城の古写真) * (城壁の説明)・・・(火打窓) ● 数段の階段を2度のぼります。 国宝彦根城天守 彦根城と城下町の建設は、今からおよそ400年前の慶長9年(1604年)に始まり、20年近い歳 月をへて完成しました。 その中心をなしたのが、天守のある本丸です。 現在の本丸には天守の建物しか残っていませんが、かつては藩主の居館である「御広間」や 「宝殿」、そして「月見櫓」なども建っていました。 天守は3階3重、つまり3階建て3重の屋根で構成されています。 規模は比較的小ぶりですが、屋根は「切妻破風」「入母屋破風」「唐破風」を多様に配しており 2階と3階には「花頭窓」、3階には高欄付きの「廻縁」を巡らせるなど外観に重きを置き、変化 に富んだ美しい姿を見せています。 天守の建物構造は、通し柱を用いないで、各階ごとに積み上げていく方式をとっており、全体 として櫓の上に高欄を付けた望楼を乗せる古い形式を残しています。 昭和32年から35年にかけて行われた解体修理により墨雲のある建築材が発見され、天守の 完成が慶長12年(1607年)ころであることが判明しました。 また建築材を克明に調査した結果、もともと5階4重の旧天守を移築したものであることも分かり ました(上図)。 彦根藩主井伊家の歴史を記した「井伊年譜」には、「天守は京極家の大津城の殿守也」とあり、 彦根城の天守が大津城(滋賀県大津市)の天守を移築した可能性が考えられています。 戦争とともに発達したお城ですが、彦根城は一度も戦争を経験することなく平和な江戸時代を 迎えました。 江戸時代には藩主が天守を訪れることも余りなく、天守には歴代藩主の甲冑などが収納され ていました。 江戸時代の天守は、軍用建築というよりも、城下から見上げる彦根藩の象徴という役割を担っ ていたようです。 狭間/さま 天守の壁に設けられた小さな攻撃用の穴を狭間と言います。 狭間には弓を射る「矢狭間/やざま」と火縄銃を放つ「鉄砲狭間」があります。 矢狭間は縦長の長方形、鉄砲狭間は三角形(鎬狭間/しのぎさま)や長方形に近い方形(箱狭間) に切られています。 これらの狭間は、いずれも板枠を壁に埋め込んで製作しますが、彦根城天守では外面を壁土で 塗り塞いで敵を欺く「隠し狭間」となっています。 各狭間の高さは、矢狭間が弓の丈の関係で比較的高い位置に切られているのに対して、鉄砲 狭間は火縄銃を座ったり伏せた姿勢で射撃するため、概して低い位置に切っています。 また各狭間の間隔は、1間(約2m)に1つずつ配置する例が多いのですが、彦根城天守では、よ り密に半間(約1m)に1つとしています。 * (鉄砲狭間/鎬狭間)・・・(鉄砲狭間/箱狭間)・・・(矢狭間) ● 廊下を曲がる所に「井伊直弼之像」が。 ● 案内に従って進みます。 ● 二層階段を上ります。 ● 三層階段を上ります。 ● 最上階からは周辺の景色がよく見えます。 * (国宝指定書) 破風の間 彦根城天守は、規模は比較的小振りですが、屋根に多様な破風が設けられているのが特長のひと つです これらの破風内には、破風の間という小部屋を設けているものがあります。 破風の間には、鉄砲狭間が切ってあり、防御のための小空間となりました。 破風の間は、その下屋敷の軒近くまで突き出ているので、屋根面による死角が少なく、防御には有 効でした。 天守の破風の間 隠し部屋とも称される破風の間には、鉄砲狭間が切られている。 この引違い板戸の中は千鳥破風の屋根裏を利用して一室が設けられ、二個の隠狭間が付けてあります ● 階下へ。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |