(13) 西の丸

                


                     


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   ● 中村大佐顕彰碑(菱の門そば)
         1874年、姫路城内三の丸広場に歩兵10連隊が設置され、一部の櫓や門などが取り壊される作
         業がはじまりました。
         姫路城のすばらしさを後世に残そうと立ち上がったのが、東寺陸軍省第四局長代理だった中村
         大佐でした。
         陸軍卿山県有朋に姫路城の存続の意見書を提出し、保存が決定されました。
         その功績を後世に伝えるため記念碑が建てられました。

                              


   ● 西の丸 南門跡
        ここにはかつて西の丸への南入口の門がありました。
        番所付きの高麗門で、坂道の真ん中には約40cm角の正方形の礎石が残っています。
        坂道の西端にもいくつか礎石が残っています。
        門の東側には武者溜りがあり、門に接続して細長い建物がありました。
        菱の門から向かってくる敵に対して射撃をするための石打棚のような施設、あるいは番所があった
        のかもしれません。

                          


                    


   ● 武者溜り
        土塀でほぼ正方形に囲まれていることから「武者溜り」と呼ばれています。
        こうした空間は、集団で軍事行動をする兵士を一時的に駐屯させる場所ともいわれます。
        菱の門の前方で石垣を張り出された場所にあるので、菱の門や西の丸の東側に取り付こうとする
        敵を攻撃するための施設とみられます。
        また、18世紀頃の絵図には、隣接する西の丸南門に接続する建物が、この空間の南側土塀に沿
        って描かれています。
        西の丸に出入りするための南入口を警備する番人などが詰める番所もあったとみられます。

            


   ● 西の丸
        この曲輪は、姫路城主本多忠政が大坂夏の陣のあと、将軍徳川秀忠の長女千姫をめとった息子
        忠刻(ただとき)のために、元和4年(1618)に御殿を建てたところで、「中書丸/ちゅうしょまる」ともい
        われていました。
        中書とは、忠刻の官職 中務大輔(なかつかさだゆう)の唐名です。
        御殿を囲むように築かれた長屋は通称「百間廊下/ひゃっけんろうか」ともいい、約300mの長さに
        なります。
        そのうち、ヨの渡櫓から北の部分が長局です。
        小さな部屋が廊下に面して並んでいて、西の丸の御殿で働く女中が住んでいたとみられます。
        長局の北端に化粧櫓があります。
        大きく開放された窓や床の間、畳敷きなど、ほかの無骨な櫓に比べると、人が居住できる拵えに
        なっています。
        千姫が男山にある天神社を拝むため西の丸に来た際に、身づくろいをしたり休息した場所といわ
        れています。

                  



                          (全景は、パノラマでご覧ください)

   ● カの櫓

                           


                  



                         (画像をクリックすると、大きくなります)


                               ● (入口へ) ●



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