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<< 廊下の大戸−→化粧櫓−→百間廊下出口−→西の丸北門跡−→狭間−→出口/土産屋 >> ● 廊下の大戸 この廊下の大戸は、建物内の扉とは思えない頑丈な造りです。 この扉の内側は女性が居住していた場所であったため、毎夜閉ざして厳しい守りとしていたと考え られます。 ● 播州姫路城図(大絵図) 本多家の重臣であった中根家に残る絵図。 第二次本多時代(1682年〜1704年)の城内を描いたものと思われる。 明治維新後失われた備前丸、西の丸、三の丸にあった御殿が平面図で描かれており、往時の姫 路城の姿が推測される貴重な絵図。 (原本絵図を約2分の1に縮小しパネル化した) 大分・中根家所蔵 ● 廊下の右側に部屋がならんでいます。 ● 石落し 石落しは、櫓、城門、土塀などに設けられる防御のための設備で、下に迫る敵の監視や攻撃を行 うための防御設備です。 建造物の外壁や塀の一部を張り出し床面の開口部には蓋を設けて、主に鉄砲、槍、矢等で攻撃 をすることができます。 ● 化粧櫓 化粧櫓は、千姫が本多忠刻に嫁いだ際に将軍家から贈られた10万石の化粧料の一部を使用して 建設されたといわれる櫓です。 階上には18畳、15畳、窓辺に6畳の3室をとって、天井には杉柾張り、壁面はすべて黒い木枠に紙 を張ったものをはめ、隅々まで技巧を凝らした住宅様式になっています。 千姫が城の西北にある男山天満宮を遙拝する際に、休息所としてこの化粧櫓を使用したといわれ ています。 武蔵野御殿など、桃山時代の居館様式をもつ建物が姫路城内で消失している。 現在化粧櫓の存在価値は非常に大きいものがあります。 ● 千姫と化粧櫓 千姫は徳川二代将軍秀忠の姫君に生まれ、政略によって豊臣秀頼に嫁したが、大阪落城の際に 救い出され、のち本多忠政の子 忠刻に再婚した。 元和3年忠政が伊勢桑名から姫路15万石の城主となったとき、忠刻も千姫の化粧料として部屋住 みのまま10万石を与えられ、姫路に移り住んだ。 忠刻と千姫の居館は、西の丸内に本館として中書丸を、桐の門内に下屋敷として武蔵御殿をそれ ぞれ築き住んだ。 これらの建物は多く豊臣秀吉が築いた伏見桃山城を取りこわした用材を移して建てたもので、桃 山時代の立派な書院造りの建物であった。 千姫は、天満天神を信仰し、姫路へ来てからは、西方の丘男山にこれを祀り、毎朝西の丸の長局 の廊下から参拝した。 このとき、この化粧櫓を休息所として利用した。 忠刻と千姫の夫婦仲は睦じく、姫路に来てから相次いで勝姫(のち池田光政室)、幸千代の二児を もうけ平和な日々を送ったが、長続きせず幸千代は3才で早逝、忠刻も寛永3年31才で世を去った 千姫は、同年落 して天樹院と号し、悲しみのうちに姫路を発って徳川家に帰った。 この化粧櫓は、中書丸や、武蔵御殿がないいま、わずかに千姫の面影を偲ぶただひとつの建物で ある。 ● 百間廊下出口がら外にでます。 * (多くの小学生達と一緒に・・・) ● 西の丸北門跡(先は通行止めになっていました) 西の丸への入口は、南北に一つずつあります。 ここは北入口の門跡で、脇戸付きの高麗門でした。 通路上に残る約50cm角の3つの石が門の礎石です。 西の丸はかつて本多忠刻の居館があったので、出入口はしっかりと守られました。 この門の西端には武者溜りがあります。 化粧櫓1階部分の石垣を張り出させた空間で、土塀が三方を囲んでいます。 西の丸南入口の門の場合と同様、門よりも高い位置にあり、北入口の門に取り付く敵を射撃でき るようになっています。 ● 狭間 姫路城の土塀や建物の壁に、□○△の形の穴が開いています。 これを「狭間」といい、穴から鉄砲や弓矢を射るための防御施設です。 穴の外側が狭く、射撃手がいる内側は穴が大きくなっています。 これは射撃の角度を広げ、敵弾を防ぐための工夫です。 この土塀は西の丸の東側に位置し、南北に長く連なっています。 ほかの土塀と異なり、□○△が規則的に並んでいます。 ● 出口に土産屋がついています。 * (出口) (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |