(画像をクリックすると、大きくなります) |
<< 大坊坂−→多宝塔−→狩野探幽の墓所−→奥絵師狩野家墓所−→ −→歴代聖人御廟所−→池上廟−→紀伊徳川家墓 >> ● 大坊坂 (だいぼうざか) 「新編武士蔵風土記稿」に「大坊坂方丈の右の坂なり、大坊へ行く道なればこの名あり」と記されて いる。 本門寺山内西隅の石段坂で坂下に大坊と呼ばれる本行寺がある。 ● 池上本門寺多宝塔 (重要文化財) 宗祖日蓮大聖人の御尊骸を荼毘に付した霊蹟に建つ供養塔。 建立は宗祖五百五十遠忌を期して行われ、江戸芝口講中の本願により、文政11年(1828)に上棟、 同13年(天保元年)に開堂供養を修している。 石造の方形基壇に築いた円形蓮華座の上に建つ木造宝塔形式の建物で、内外ともに漆や彩色に よって華やかな装飾が施されている。 塔内中央には金箔や彩色で装飾された華麗な木造宝塔を安置し、日蓮大聖人御所持の水晶念珠 を奉安している。 宝塔形式の木造塔婆は極めて現存例が少なく、当山多宝塔はその中でも最大規模を誇る本格的 な宝塔として、極めて貴重な建物である。 なお、「多宝塔」の名称は建立当初から呼称されているものであり、文化財としての名称は「池上本 門寺宝塔」である。 平成23年3月 池上本門寺 ● 狩野探幽の墓所(東京都指定史跡) 探幽墓の左隣にある瓢箪形の墓標は分骨墓で、目黒区永隆寺にあったものを昭和11年(1936)に 改葬したものです。 ● 奥絵師狩野家墓所(東京都指定史跡) 奥絵師狩野家墓所は、御用絵師として江戸幕府の画業を掌握した狩野四家(中橋狩野家、鍛冶橋 狩野家、木挽町狩野家、浜町狩野家)の墓所です。 指定面積は297.47平方メートルで、宝塔の東と南西側、五重塔周辺といった、池上本門寺墓所に おいて重要な場所に形成されています。 最も古い紀年は、狩野孝信供養塔に刻まれた元和5年(1619)ですが没年や墓標の型式からみて、 埋葬が始まったのは、寛永年間(1624〜1644)以降と考えられます。 宗家である中橋狩野家は、宝塔南東側に墓域を定め、墓標は主に笠付角柱形を採用しています。 狩野探幽を祖とする鍛冶橋狩野家は、探幽が宝塔南西に埋葬されて以降、宝塔北東一帯を墓域 としていたようですが、明治初年の改修で二基に合葬されました。 墓標型式は笠付碑形です。 なお探幽墓の左隣にある瓢箪形の墓標は分骨墓で、目黒区永隆寺にあったものを昭和11年(19 36)に改葬したものです。 木挽町狩野家は、二代常信、三代周信、九代養信が、紀州徳川家専用墓所の入口付近(現在の 五重塔周辺)に埋葬、四代古信以降は主に宝塔南西を埋地としています。 墓標は圭頭方柱で、側面に「木」字が陰刻されています。 また木挽町狩野家から分家を許された浜町狩野家は、初代岑信が探幽墓正面左前に埋葬された 後、その南側を墓域としています。 その後、文化年間(1804〜1818)以降は宝塔東側に墓域が展開しています。 当主の墓標は家系ごとに規格性があり、法印や法眼に叙せられた当主墓は台座に亀趺を有する ことが一般的です。 なお、狩野探幽墓は東京都指定旧跡でしたが、旧跡を解除し、奥絵師狩野家墓所に含めて史跡 に指定されました。 平成26年3月 建設 東京都教育委員会 ● 歴代聖人御廟所 宗祖日蓮聖人の御荼毘所跡大宝塔の背後に新設された大切な浄域の一つで、第4世日山聖人 以後の歴代貫首をおまつりしています。 ● 池上廟 個人を対象とした新しいタイプのお墓です。 ● 紀伊徳川家墓 この墓所は、養珠院お方の方(承応2年/1653)没、および瑤林院(寛文6年/1666)没をはじめ、主 として江戸藩邸で没した藩公の内室(令夫人)を埋葬したものである。 墓域の規模、構築の優美さなど、幕府直系大名の墓所としての威容を示している。 お方の方は、徳川家康の側室で、紀伊大納言頼宣、水戸中納言頼房の生母である。 その薫化により日蓮宗に帰依した頼宣は、法華経を信奉することが篤かった加藤清正の息女の 瑤林院を妻として以来、池上本門寺との関係がより深いものとなった。 昭和50年3月19日指定 大田区教育委員会 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |