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<<稲荷神社−→黒門橋−→懐古神社>> ○ 「二の丸跡」から「南丸跡」・「北丸跡」を見ながら進むと、右側に「稲荷神社」 正面の「黒門橋」を渡ると 「黒門跡」・「お駕籠台跡」があります。 ● 稲荷神社 藩主牧野公が元禄15年、越後の与板藩から小諸藩に入封された際、ともに与板藩より遷座され ました。 始めは御城下赤坂の地に祭られ、商売繁盛、家内安全の守り神として崇敬されていました。 文政12年には、神祇官総領公文所より神璽を授かるほどの格式をもった霊験あらたかな稲荷神 社です。 小諸城には、別に城内鎮護の守護神として、城内富士見台に稲荷社が祭られていました。 この社は戦国時代に武田氏との由緒の言い伝えもありますが、御城中繁盛安全、永久大安の守 り神として小諸城を守り続け、廃藩まで祭られてきました。 以降、この社と赤坂稲荷は合併されて現在の地に遷座され、大願成就の守護神として多くの人々 の信仰を集めています。 ● 黒門橋 城内ただ一カ所の橋でした。 (現在は、「白鶴橋」や「酔月橋」があります) 一の門が黒塗りの門の為、「黒門橋」と名づけられたとの説もあるそうです。 別名 算盤(ソロバン)橋 橋の下に車輪が取り付けてあり、敵の攻撃時には短時間で城内に引き込んでしまう という橋。 承応2年(1653)から宝暦5年(1755)までの102年間で、9回掛け替えています。 紅葉橋 橋の下の谷が紅葉谷で、紅葉の時期は素晴らしいです。 ● 黒門跡 小諸城一の門で本丸御殿の入口にあった黒塗りの門跡。 仙石秀久が建てたもので、現在は小諸市八満の正眼院にあるそうです。 ● お駕籠台跡 ○ 進んでいくと「懐古神社」で、鳥居の手前に 標識(下馬)と 「小諸領境界石標」があります。 鳥居の両側には、石標(懐古神社 小諸城址)がたっています。 ● 小諸領境界石標 文化3年(1806)建立 東 追分の原(軽井沢) 西 笠取峠(立科町) * (下馬)・・・(小諸領境界石標)・・・(従是西小諸領) ○ 懐古神社の鳥居をはいると 「懐古園の碑」 があり、「懐古神社」がたっています。 ● 懐古園の碑 明治14年(1881)に懐古園が造られたときの記念碑で、題字は勝海舟の筆です。 * (手水舎)・・・(懐古園の碑) ● 懐古神社 御祭神: 藩主牧野公歴代の霊 菅原道真公(天神様) 火之迦具土命(荒神様) 御由緒: 明治4年(1871)の廃藩置県により小諸城としての役割を終え、明治13年(1880)、 小諸城址を公園「懐古園」として整備した際、旧小諸藩の旧士族によって小諸城本丸 跡に創建されました。 元々、長享元年(1487)の大井光忠による小諸城築城の時から本丸東北の紅葉ヶ丘 に祀られていた火魂社(火之迦具土命)と、天正12〜13年(1584〜1585)頃から同じく 紅葉ヶ丘に祀られいた天満宮(菅原道眞公)の鎮守2社と、歴代の旧小諸藩主牧野公 の御魂を合祀しました。 牧野家は、元禄15年に越後國与板藩より小諸に入府。 以降明治2年(1869)の廃藩に到るまで、十代に渡って当地を治めた『小諸温古雑記』 によると、小諸城の天満宮は、天正12〜13年頃、当時の城主松平康國が城内の空濠 を改修した時、紅葉谷の土中から光を放つ天神様の木像が現れた為、紅葉ヶ丘に元々 鎮座していた荒神社と並べて祀られたのが始まりという。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |