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<< 四足門−→掛川城主要部模型−→三日月堀−→十露盤堀−→掛川城の発掘調査−→ −→太鼓櫓−→入館券売場−→本丸跡−→本丸広場−→腰石垣と玉石側溝 >> ● 四足門への階段わきに、「掛川城公園」の石碑、右脇は「三日月掘」がみえます。 三日月堀 本丸門の前面に配置された三日月状の堀です。 深さは8mありました。 調査では、堀の南側から石垣が見つかりました。 その下からは柱穴が並んで見つかりました。 ● 四足門 調査では、門の跡は見つかりませんでしたが、正保城絵図を元に復元されました。 門の内側には、入城者を調べる番所がありました。 本丸に通じる重要な門でした。 ● 掛川城主要部模型 この模型は、正保元年(1644)幕府が諸大名に命じて提出させた城絵図と発掘調査結果を基本資と して、150分の1の縮尺で制作されました。 塩櫓・銭櫓のあった腰曲輪や、内堀の松尾池・乾堀は、削り取られたり、埋め立てられたりして現在 目にすることはできませんが、模型ではこれらの曲輪や堀を含めた正保年間(1644〜1647)頃の最 盛期の掛川城の主要部が示されています。 模型の素材は、風雨、日光などの屋外での自然条件下でも耐久性が高い有田製磁器が用いられ ています。 ● 三日月堀 本丸門の前面に配置された三日月状の堀です。 深さは8mありました。 調査では、堀の南側から石垣が見つかりました。 その下からは柱穴が並んで見つかりました。 ● 十露盤堀(そろばんぼり) 本丸を囲む重要な堀です。 十露盤堀という名称の由来ははっきりしませんが、水がたまった部分がそろばんの箱のように見え ることが、その由来と考えられます。 ● 掛川城の発掘調査 発掘調査 平成4年(1992)から平成5年までの発掘調査によって、それまで知られなかった地下に眠る戦国 時代から江戸時代の掛川城が、再びその姿を現しました。 城の出入口である本丸門の前面には、十露盤堀・三日月堀・内堀(松尾池)の3つの深い水堀に よって厳重に防御されていました。 本丸から天守閣への登城路は、敵の侵入に備え何度も折り曲げ登りにくくしてあります。 堀や登城路の工夫は、軍事施設としての城づくりと言えます。 本丸では明確な建物跡はわかりませんでしたが、柱穴(ちゅうけつ)・礎石や、便所として使われ た素掘りの穴も見つかりました。 日常生活に使われた茶碗、珍重された中国製の陶磁器、茶道に使われた天目茶碗などが、本 丸やから見つかりました。 軍事施設としてだけでなく、生活の場としても使われていたことがわかります。 戦国時代には、掘・土塁とともに石垣が築かれ、軍事機能が高められていましたが、江戸時代 中頃になると堀の一部を埋め立て御殿がつくられ、しだいに領国を治める役所としての機能に 重点が置かれるようになりました。 (1)登城路の玉石階段と玉石側溝 (2)三日月掘・十露盤掘・内堀 (3)三日月掘 (4)三日月掘と内堀を結ぶ暗渠 (5)出土した瓦 出土したかわらけ陶磁器 * (左/1)・・・(中/2)・・・(右/3) * (左/4)・・・(右/5) ● 本丸門跡の石垣の間を通って本丸広場方面へ。 ● 太鼓櫓 正保城絵図では、荒和布櫓(あらめやぐら)と呼ばれる見張りの櫓がありました。 今ある建物は、嘉永7年(1854)の大地震以後に建てられた太鼓櫓です。 時刻を知らせる太鼓を置いていた櫓で、何回かの移転の末、昭和30年(1955)に三の丸から移築さ れました。 * (天守閣への階段途中から)・・・(天守閣から) ● 入館券売場 ● 本丸跡 城の主要部で、藩主の住まいである本丸御殿がありました。 調査では、建物跡はわかりませんでしたが、柱穴や礎石が見つかりました。 城がつくられる以前は、墓地であったことがわかりました。 ● 本丸広場 ● 腰石垣と玉石側溝 調査では、土塁の裾(腰)から、玉石積みの石垣と側溝が見つかりました。 新たに積まれた登城路の石垣の下に保存されています。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |