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<< 天守丸への登城路−→腰櫓台跡−→腰曲輪方面−→ −→腰曲輪跡−→天守下門跡−→天守丸−→霧吹き井戸 >> ● 天守閣に向かって階段を登ります。 * (右画像/太鼓櫓) ● 天守丸への登城路 何度も折り曲げた狭い階段は、敵の侵入に備え登りにくくなっています。 復元された階段や側溝のうちゆるやかな曲線を描く玉石側溝は、調査で見つかった江戸時代後期 のものを生かしています。 ● 腰櫓台跡 敵の侵入に備え、広い範囲が見渡せる櫓がありました。 調査では、腰櫓に登る石段が見つかりました。 ● 腰曲輪方面へ ● 腰曲輪跡 天守丸と十露盤掘の間にあった曲輪で、2つの櫓と井戸がありました。 明治中頃、十露盤掘を埋め立てるために削られていました。 ● 再び階段を登ります。 * (ふり返ると・・・) ● 天守下門跡 天守閣へ入るための二層の櫓門がありました。 調査では、櫓をのせていた基壇の石垣が見つかりました。 * (振り向くと)・・・(太鼓櫓)・・・(御殿) ● 天守丸 天正18年(1590)山内一豊が入城する以前は、本丸として使われていました。 一豊によって城域が拡張されると、天守閣を配置する独立した曲輪になりました。 ● 霧吹き井戸 永禄12年(1569)徳川家康は、今川氏真の立てこもる掛川城を攻めました。 この時、井戸から立ち込めた霧が城をつつみ、家康軍の攻撃から城を守ったという伝説があります。 霧吹き井戸について 1522年に井戸が掘られました。(約1年かけて掘られている) 日本第3位の深さといわれます。(深さ45mあります) 今川氏真が立てこもる掛川城を徳川家康が攻めた時、井戸から立ち込めた霧が城を包み家 康軍の攻撃から城を守ったという伝説があります。 *別名 雲霧城とも言われます。 この井戸は昭和35年位まで使われていた。 (戦没者慰霊塔があって、それを護る庵守様の庵が天守丸にあり、その方が使っていた) 室町時代の有名な連歌師宗長(今川の家臣1448〜1532)が掛川城初期の事を書き留めてあ った。 1番 丸亀城(香川)・・・65m 2番 福知山城(京都)・・50m 3番 掛川城(霧吹き井戸)・45m 4番 松山城(愛媛)・・・42m * (天守閣建設前の霧吹き井戸/昭和35年位まで使用) (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |