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<< 徳川家綱霊廟勅額門−→徳川綱吉霊廟勅額門−→ −→天璋院篤姫墓所(非公開)−→光明閣(永代供養墓) >> ● 徳川家綱霊廟勅額門(とくがわいえつなれいびょうちょくがくもん/重要文化財) 台東区上野桜木1丁目16番 四代将軍家綱は、慶安4年(1651)4月に父・家光の死に伴って、わずか10才で将軍の座につき、延 宝8年(1680)5月8日に39才で没した。 法名を厳有院(げんゆういん)という。 病気がちであった家綱時代の政務は、主として重臣の手に任されていたが、とくに後半の政治を担 当した大老・酒井忠清が有名である。 時代は家綱の襲職直後に起こった由比正雪の乱の解決を機に、ようやく安定期に入った。 家綱の霊廟の一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失したが、この勅額門と水盤舎 (ともに重要文化財)は、その廟所と共に、これらの災を免れた貴重な遺構である。 勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。 なお、このうち水盤舎は延宝8年に家綱のために造立されたものであるが、この勅額門は昭和32年 の改修時に発見された墨書銘によって、もと家蜜の上野霊廟の勅額門であったものを転用したもの と考えられる。 平成6年3月 台東区教育委員会 ● 寛永寺 常憲院殿霊廟 勅額門並びに水盤舎 江戸時代 宝永6年建立 徳川綱吉霊廟勅額門(重要文化財) 台東区上野桜木1丁目16番 五代将軍綱吉は、延宝8年(1680)5月に兄・家綱の死に伴って将軍の座につき、宝永6年(1709)1月 10日に63才で没した。 法名を常憲院(じょうけんいん)という。 綱吉ははじめ、善政を行い「天和の治/てんなのち」と賛えられたが、今日では「生類憐みの令」など を施行した将軍として著名。 元禄11年(1698)9月、この綱吉によって竹の台に寛永寺の根本中堂が建立された。 造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀伊国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門である。 叉、それに伴って先聖殿(せんせいでん/現湯島聖堂)が上野から湯島に移されている。 綱吉の霊廟は宝永6年の11月に竣工したが、それは歴代将軍の霊廟を通じてみても、もっとも整った ものの一つであった。 ただ、その一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失した。 この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その廟所と共に、これらの災を免れた貴重な遺構である 勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。 平成6年3月 台東区教育委員会 ● 天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ) 墓所(非公開) 天璋院篤姫は天保6年(1835)12月19日、薩摩藩今和泉島津家島津忠剛(ただたけ)の長女として今 和泉島津家本邸(現在の鹿児島県指宿市)にて生を受けました。(幼名一子(かつこ)・於一(おかつ)) 嘉永6年(1853)、島津本家28代当主島津斉彬(なりあきら)の養女となり、名を篤姫と改めて鶴丸(鹿 児島)城に入り、また同年中に鹿児島をを出立し京都の近衛家に参殿ののちに江戸城下、芝の藩邸 に入っています、 その後、安政3年(1856)に近衛家の養女となり、名を敬子(すみこ)と改め、同年に徳川13代将軍家定 公の正室として輿入れしました。 この輿入れの際に、篤姫は斉彬より14代将軍に一橋慶喜を推すようにとの蜜命をうけていましたが、 家定公は心身が虚弱で、入輿からわずか2年後の安政5年(1858)に逝去され、14代将軍には紀州の 慶福(よしとみ(のちの家茂公))が就任しています。(落飾し、天璋院と号する。) また同年、義父 斉彬が逝去され、篤姫はその蜜命を果たせぬまま夫と養父を相次いで亡くしました しかし、落胆の中でありながら、篤姫は若き将軍の補佐によく勤め、また大奥をまとめる為にも尽力し ました。 公武合体の為、家茂公のもとへ降嫁した和宮(かずのみや)とは当初は対立していましたが、のちに 心を通わす仲となり、その後敵対してしまった実家(薩摩)に対し、徳川家の存続を歎願するなど江戸 城無血開城にも大きく貢献をしています。 明治になると、わずか6歳で徳川家を継いだ16代家達(いえさと)公の養育に余生を捧げ、明治16年 11月に49歳で亡くなるまで、徳川家の為にその生涯を捧げました。 なお、墓所は5代綱吉公霊廟内、家定公の墓所の隣にあり、宝塔の脇には好物であったとされる枇 杷(びわ)の木が植えられています。 平成20年 寛永寺教化部 ● 光明閣(永代供養墓) (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |