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<< 大佛パゴダ−→上野大仏−→時の鐘−→旧寛永寺五重塔 >> ● 階段をのぼると、上野大仏・パゴダ薬師堂があります。 開堂時間 午前10時〜午後4時 (お守りの授与 3時30分まで) ご朱印受付 午前10時〜午後3時 (12時〜12時30分の間昼休み) 東叡山寛永寺 上野大仏・パゴダ薬師堂 ● 大佛パゴダ 御本尊 薬師瑠璃光如来 御脇侍 日光月光二菩薩 (旧上野東照宮薬師堂ご本尊) 沿革 寛永8年(1631年) 堀丹後守直寄公が釈迦如来尊像を当山に建立せられ、1660年頃青銅の大 仏に改鋳された。 大正12年、大震災で破損のため撤去する パゴダ建立 発願者 上野観光連盟 寄進者 大成建設株式会社 昭和42年7月吉日竣工 東叡山寛永寺 パゴダ薬師堂 本尊 薬師如来 心と体の健康祈願 薬師如来は、大医王仏とも称される生命を病苦から救う仏様です。 先ず、薬師如来の絵馬を札所にて授かり、願意と願主のお名前を記入します。 次に、絵馬を合掌にはさみ、正面で一礼。 時計回りにご真言を唱えながらパゴダの周りを一周します。 正面に戻ってきたら一礼、絵馬をかけて祈願完了です。 真言「オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ」 *ひと回りする間に7回唱えてください。 東叡山寛永寺 パゴダ薬師堂 ● 幾多の難を乗り越えた上野大仏 この大仏は寛永8年(1631)、越後国村上城主であった堀丹後守直寄公がこちらの高台に、戦乱に倒 れた敵味方の冥福を祈るために建立した「釈迦如来」です。 京都・方広寺の大仏に見立てられ、当初は漆喰で作られましたが、明暦・万治の頃(1655〜60年)木 食浄雲(もくじきじょううん)という僧侶により高さ6メートルの銅仏に改められました。 また元禄11年(1698)には輪王寺宮公弁法親王により大仏殿が建立され、伽藍が整いました。 しかし大仏は江戸時代以来、地震や火災といった災難に何度も見舞われました。 幕末の上野戦争では辛くも被害を免れましたが、明治6年に大仏殿が解体され、さらに大正12年の関 東大震災でついにお顔が落ちてしまったのです。 その後、寛永寺で保管された大仏は再建される計画もありましたが、残念ながら復元されることなく、お 体は第二次世界大戦時に供出されてしまいました。 昭和47年春、再び旧地に迎えられた大仏は、建立当初より大きくお姿を変えましたが「これ以上落ちな い合格大仏」として広く信仰を集めています。 寛永寺教化部 昭和15年「幻の東京オリンピック」にあわせて再建されようとした大仏でしたが、お体の部分は戦 時中の金属類回収令により供出されました。 穏やかなお顔のなかで戦争悲惨さとおろかさをお論じ下さるかのようです。 大仏を 埋めて白し 花の雲 子規 *(左/在りし日の大仏殿)・・(右/露座となった明治期の大仏) ● 時の鐘 花の雲 鐘は上野か 浅草か 芭蕉が詠んだ句はここの鐘のことである。 時の鐘は、はじめ江戸城内で撞かれていたが、寛永3年(1626)になって、 日本橋石町3丁目に移され、江戸市民に時を告げるようになったという。 元禄以降、江戸の町の拡大に伴い、上野山内・浅草寺のほか、本所横川・芝切通し・市谷八幡・目 白不動・目黒円通寺・四谷天竜寺などにも置かれた。 初代の鐘は、寛文6年(1666)の鋳造。銘に「願主 柏木好古」とあったという。 その後、天明7年(1787)に、谷中感応寺(現、天王寺)で鋳直されたものが、現存の鐘である。 正面に「東叡山大銅鐘」、反対側には、「天明七丁未歳八月」、下に「如来常住、無有変易、一切衆 生、悉有仏性」と刻まれている。 現在も鐘楼を守る人によって、朝夕6時と正午の3回、昔ながらの音色を響かせている。 なお、平成8年6月、環境庁の、残したい「日本の音風景100選」に選ばれた。 平成8年7月 台東区教育委員会 ● 旧寛永寺五重塔(国指定重要有形民俗文化財) 寛永八年(1631)に初建されたこの塔は、第五層のみが銅板葺で、他は瓦葺となっており、高さは 地上から先端の宝珠 (ほうじゅ)まで36m、第一層には釈迦(・薬師・阿弥陀・弥勒の四方四仏が、 江戸時代には祀られていました。(現在は東京都に寄託 上野動物園内) (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |