● 白旗神社を左側に見ながら正面石段(53段・頼朝が亡くなった年齢)を上ります。 ● 源頼朝墓 源頼朝は、治承4年(1180)平家打倒のため挙兵、鎌倉を本拠として元暦2年(1185)に平家を滅ぼし ました。 また、鎌倉幕府を大蔵(現在の雪ノ下3丁目付近)に開いて武家政治の基礎を築きました。 正治元年(1199)に53歳で没すると、自身の持仏堂であった法華堂に葬られ、法華堂は頼朝の墓所 として厚く信仰されました。 法華堂は後に廃絶しましたが、この丘の上一帯がその跡です。 現在建っている塔は、後に島津藩主・島津重豪(しげひで)が整備したものとされます。 ● 奉寄進碑 玉垣一圍・石燈籠兩基・水盥盤一箇 安永八年己亥ニ月 薩摩中将源重豪 ● 法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓) 国指定史跡 この平場は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。 治承4年(1180)平家追討のために挙兵した源頼朝は、同年に鎌倉に入りました。 元暦2年(1185)に平家を、文治5年(1189)に奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、鎌倉を拠点とする武家に よる全国的な政権の基礎を築きました。 以降、江戸時代が終わるまで、約700年間にわたり、武家による政権が続くことになります。 建久10年(1199)に頼朝が53歳で没すると、法華堂は幕府創始者の墳墓堂として、のちの時代の武士 たちからもあつい信仰を集めました。 鎌倉幕府減亡後も法華堂は存続しましたが、17世紀の初頭までには堂舎がなくなり、石造りの墓塔が 建てられました。 現在の墓域は、安永8年(1779)に薩摩藩主島津重豪によって整備されたものです。 平成24年3月 鎌倉市教育委員会 ● 石碑 承薩州侯之命東都龍湖親和八十歳謹書 ● 石碑 元祖島津豊後守忠久石塔道 ● 希義公の土と石 父義朝が平清盛の前に屈した「平治の乱(259年)」のおり、平家方に捕縛された兄頼朝は当時13才、 同じ父母の下に生まれた希義は当時3才と言われていますが、其の後一度として兄弟の再会なく今 日に至っています。 公家政治から武家政治へ移行の戦乱の狭間、兄弟の悲哀を想い、今日互いの墓所の土と石を交換 し835年の時を経て兄弟を再会させたものです。 平成6年(1994)9月25日 源頼朝公報恩会 源希義公顕彰会 (画像をクリックすると大きくなります) ● (入口へ) ● |