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<< (1)鈴木家住宅−→(2)井岡家住宅 >> ● (1)鈴木家住宅 指定区分:神奈川県指定重要文化財 旧所在地:福島県福島市松川町本町 建物区分:旅籠(馬宿) 構造形式:前部=寄棟造、茅葺、桁行 10.6m、梁行 6.9m 後部=入母屋造、茅葺、桁行10.4m、梁行5.2m 建築年代:19世紀初期 鈴木家住宅は、奥州街道の宿駅、八丁目宿の馬宿(うまやど)でした。 馬宿とは馬喰(ばくろう、馬商人)や馬方(うまかた、馬の世話役)を泊めた宿屋です。 この馬宿、白河(福島県)方面の競り市(せりいち)に子馬を出すため、馬の産地だった岩手県南部 地方から上がってきた人々に利用されたもので、深い軒(のき)、日除けの板暖簾、格子窓等に江 戸時代の典型的な宿場建築の姿を見ることができます。 正面の揚戸は戸板を上に収納するいわばシャッターであり、内開き大戸とともに狭い間口を活かす 工夫です。 入口左手は帳場、これに続くナンド・チャノマ・カッテが家族の生活の場です。 客室は奥の座敷と中二階、マヤ(馬屋)は土間の右手の板庇(いたびさし)の下で、この場所で10数 頭つないだそうです。 なお、鈴木家は基本的に稲作や養蚕を行う農家でしたが、宿屋のほか醤油の醸造業などを営んだ 時代もありました。 *鈴木家の暮らし 民家園に移築されているのは鈴木家の主屋のみです。 移築前は背後に敷地が長く続いており、文庫蔵・醤油蔵・隠居屋・雨屋(作業小屋)・木小屋・わら 小屋・馬屋・牛小屋・鳥小屋など、いくつも建物が並んでいました。 さらに、それらの後ろには畑が広がり、少し離れた場所には田もありました。 鈴木家は馬宿時代を含め農業を営んでいました。 主力の作物は米です。 一番南とはいえ福島は東北の地であり、凶作の年もありました。 品種改良の進んだ近年でも、平成5年(1993)は冷夏のため、米が出来なかったそうです。 また、養蚕を行っていた時代もありました。 当時、裏の畑は桑畑になっており、1階と2階の座敷を使って蚕を飼育していました。 飼育期間は畳を上げ、イタタタミという畳と同じ形の板を入れたそうです。 この他、鈴木家では味噌の醸造業を営んでいた時代もありました。 *馬市と馬宿 馬の売買は江戸時代に盛んになり、各地に馬のせりを行う「馬市」が立つようになりました。 特に古くから名馬の産地として知られていた東北地方では、奥州街道沿いの各地で馬市が開か れ、近郷の農家から何千頭もの馬と、仲買人である博労が集まりました。 鈴木家の経営していた馬宿「赤浦屋/あかうらや」に泊まる客は、こうした博労など馬を連れた人 々でした。 特に白河(福島県白河市)と本宮(福島県本宮市)で年2回開かれる馬市を目指し、南部地方から はるばるやってくる博労にとって、八丁目宿の赤浦屋は目的地まであとひと息という宿泊地だっ たようです。 宿では、馬は土間の馬屋で、人は座敷で寝ました。 馬屋には10数頭を泊めることができ、世話は全て宿の者が行いました。 宿賃は人馬あわせて一泊1円50銭だったそうです。 しかし、鉄道などの普及に伴ってこうした客が次第に減り、馬宿としての営業は明治20年頃に終 えました。 ○ みせ(店・・泊まり客の受付や勘定をする) 入口の左側。 ○ まや(馬屋) *民家の火 民家の生活にとって、「いろり」や「かまど」は欠かせないものでした。 いずれも暖房や炊事などさまざまな用途を併せ持っています。 食べ物を煮炊きする際は、西日本ではかまど、東日本の山間部ではいろり、奄美や沖縄では 三石が用いられました。 東日本の山間部で炊事にかまどが使用されるようになったのは、比較的新しい時代です。 ○ かって(勝手・・調理場・食事場) *いろり いろりは「ヒドコ」「ホド」「ユルリ」「ジロ」「ヒジロ」などと呼ばれますが、「人の居場所」あるいは 「火所」を表しています。 東北・北陸地方など寒さの厳しい地域では食事や団らん、夜なべや客の接待などでその火は 一年中燃え続けていました。 いろりはまさに人が寄り集う生活の中心だったのです。 いろりはまた建物を維持するためにも必要でした。 火の熱や煙は害虫を駆除する他、湿気を取り除き、腐食を抑え、民家を長持ちさせる役割を果 たしていました。 いろりの席はその家でもおおよそ決まっています。 鈴木家ではチャノマを背にした場所が「ヨコザ」と呼ばれる当主の席、その向かいは「キジリ」と 呼ばれ、嫁が火を焚きながら座りました。 ○ ちゃのま(茶の間・・家族のやすらぐ部屋) ● (2)井岡家住宅 指定区分:神奈川県指定重要文化財 旧所在地:奈良県奈良市高畑町 建物区分:商家 構造形式:切妻造、桟瓦葺、桁行7.9m 梁行12.7m 建築年代:17世紀末期〜18世紀初期 この建物は、奈良の柳生街道に面した商家でした。 古くは油屋を営み、のち線香屋としてその製造販売を行っていました。 外観は正面に庇(ひさし)を設け、吊上げ式の大戸、格子、揚見世(あげみせ)を備えて、商家の 面影を伝えています。 また、柱などを塗り込んだ外壁や、瓦葺(かわらぶき)屋根は、防災を考慮した町屋の性格をよ く表しています。 内部は一方を通り土間(とおりどま)とし、居室部は土間に沿って縦一列に三室を並べ、「つし」 と呼ばれる中二階(物置)を設けています。 正面左のミセは商いの場で、右のシモミセは品物の取引に、折りたたみ式の揚見世は品物の 陳列に使われました。 ○ 入口を入ります。 ○ みせ(店・・商売をする所) 左側 しもみせ(小売をする場所) 右側 *井岡家の暮らし 井岡家の屋敷は、街道に面した細長い土地に、中庭をはさんで3つの建物が南北に連なる形を とっていました。 民家園に移築されたのは、このうち一番南の主屋のみです。 このすぐ北にベンジョやフロの並ぶ南北に細長い建物、その北に座敷2間のある東西に長い建 物が鈎の手に続き、これらがロウカと呼ばれる伝い縁とドマでつながっていました。 入口は吊り上げ式の揚げ戸です。 移築前は、外観にガラス戸もあり、いずれも昼間は開け放しでした。 ドマに入るとクドが2つあります。 1つは日常用です。 井岡家に囲炉裏はなく、煮炊きはクドで行いました。 もう1つは祭祀用です。 三宝荒神を祀るもので「オクドサン」と呼ばれ、暮れの餅つきのとき以外、火を入れることはあり ませんでした。 主屋には3部屋ありますが、中央を「ダイドコロ」と呼びました。 神棚と仏壇のあった部屋です。 ハナレができると食事はそちらでとるようになりましたが盆と正月には家族がここに集まりました 家の前の折りたたみ式の縁台は、商売をやめてからは夕涼みなどに使われました。 *井岡家の生業 井岡家の祖先は油屋を営んでいたと伝えられています。 しかし、屋号が「油屋与兵衛」だったこと、東側のミセミヤ(シモミセ)が仕事部屋だったこと以外、 詳しいことはわかっていません。 その後、嘉永(1848〜1854)のころに家業を線香屋に改めましたが、きっかけは線香原料を扱う 家から養子を取ったことだったようです。 主屋のドマは、原料となる杉の葉の保管場所になっていました。 製造に使われたのは東側のミセノマ(シモミセ)で、ハナレのドマでこねた原料を機械で細く伸ば す作業を行っていました。 販売に使われたのは西側のミセノマです。 この部屋にはガラスの入った戸棚が置かれ、線香が並べられていました。 井岡家は当時、デッチサンと呼ばれる住み込みの従業員を4、5人抱えていました。 井岡家ではこうした店頭販売だけでなく、近隣の寺にも納めていました。 うち一番の大口が、生駒聖天宝山寺(いこましょうてんほうざんじ)だったそうです。 しかし、戦争で原料の入手が困難になり、昭和16年(1941)ごろ廃業しました。 ○ にわ *かまど かまどは、「クド」「ヘッツイ」などと呼ばれ、食料の煮炊きや湯沸し、牛馬の飼料づくりなどに使 われました。 しかし、地域によって役割が異なっていたように、かまどの形式にもさまざまなものがあります。 たとえば、かまどを一つだけしか築かない所もあれば、大小いくつも築く所もあります。また別に 釜屋を設けてその中に築く所や、屋外に築く所もあります。 生活に欠かすことのできないかまどの存在は、民家の地域色を生む要因ともなっています。 井岡家には2つのかまどがありますが、左が炊事に使われたものです。 移築前は段差のある上面に4つの釜口があり、通常では低い方2つの釜口で、春日大社の祭り りのときは高い方の2つで煮炊きしました。 ○ ざしき(座敷・・お客さまをもてなす所) ○ だいどころ(台所・・家族の居間・食事をする所) (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |