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<< (3)旧佐地家門・供侍−→(4)旧三澤家住宅 >> ● (3)旧佐地家門・供侍 (お供が控えた武家屋敷の門) 指定区分 川崎市重要歴史記念物 旧所在地 愛知県名古屋市東区白壁 建物区分 武家屋敷付属建物 構造形式 門=棟門、桟瓦葺 塀=延長10.5m、桟瓦葺 供侍=入母屋造、桟瓦葺 桁行4.6m 梁行9.2m 建築年代 19世紀初期 この建物は、もと名古屋城の東南にあり、禄高(よくだか)二百五十石の武家屋敷の出入口 でした。 母屋(おもや)は名古屋に残されたため、現在は旧三澤家住宅を主屋に見立てて配置してい ます。 門は棟門(むなかど)と呼ばれる形式です。 両袖部に突出している小屋根は、提灯を吊すためのものです。 供待(ともまち)はお供が主人の帰りを待つための施設で、内部は土間、門番部屋、囲炉裏の ある板の間(供侍)からなっています。 供侍が一つの建物として建てられるのは珍しい事例です。 屋敷外は漆喰(しっくい)仕上げとして城郭風であるのに対し、内側は中塗りまでとして軒裏( のきうら)も木部を露出させた簡素な仕上げにするなど、対面を重んずる武士の家らしさが現 れています。 *石川家と佐地家 この屋敷には石川家という武家が住んでいました。 石川家は尾張藩に仕えた二百五十石取りの中級武士で、普請奉行をしていたと伝えられていま すが、当時の生活について詳しいことはわかっていません。 明治の入り、一時期、陸軍歩兵第六連隊長・梨本宮守正王(なしもとのみやもりまさおう)の官舎と して使われたという話が残っています。 その後、ある時期に銀行の所有となり、昭和5、6(1930、31)年ごろ佐地家の手に渡りました。 佐地家は明治37(1904)年に陶器の輸出を手掛ける佐地貿易株式会社を創業しました。 この屋敷は事業所として使われ、主屋は陶器に絵付けなどをする工場となっていました。 この供待(ともまち)の建物は改築され、床の間を備えた六畳の座敷と二畳・三畳・四畳半の小部 屋、そして土間が設けられていました。 工場の共同経営者が住まいとして使った時代もありましたが、その後は主に陶器の倉庫として使 われていました。 ● (4)旧三澤家住宅 宿場で薬屋を営んだ板葺き屋根の家 神奈川県指定重要文化財 旧所在地:長野県伊那市伊那 建物区分:商家(薬種問屋→旅籠) 構造形式:切妻造、石置板葺、一重、一部二階、桁行13.6m、梁行12.7m 建築年代:19世紀中 この建物は、中山道(なかせんどう)から分かれる伊那(いな)街道の宿駅、伊那部宿(いなべじゅ く)にありました。 農業を主とし、代々組頭(くみがしら)をつとめてきましたが、江戸時代の末に製薬・売薬業を始め て成功しました。 外観上の特徴は、石置板葺(いしおきいたぶき)のゆるい切妻造(きりづまづくり)屋根と上手の門 構え、それから式台玄関(しきだいげんかん)です。 板葺の屋根は良材に恵まれた山間部の地域性によるものです。 間取りにはこの宿場の半農半商的性格が現れています。 通り土間(とおりどま)で大戸口(おおどぐち)から敷地奥へつなぐのは町屋の特徴です。 一方、土間後部をウマヤとし、囲炉裏(いろり)のあるオオエを中心に構成する点はこの地方の農 家と共通しています。 * 修理中のため、見学できませんでした。 ● 標識(←信越の村 宿場→)に従っていきます。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |