(5)下の段 1

                       


                          (岡山城HPを参考にしました)

                       (画像をクリックすると、大きくなります)

 

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           −→(35)多聞櫓手前の石垣−→(36)本段東側の高石垣(多聞櫓の石垣)−→

              −→(37)本段南東の高石垣(干飯櫓の石垣)−→(38)三階櫓下の石垣−→

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 (26) 廊下門手前から「下の段」を時計回りでまわります。

                          


 (27) 岡山開府四百年記念開祖宇喜多氏顕彰之碑

                  


 (28) 笠井信一先生像
        大正時代、民生委員制度の起源となる制度を作った元岡山県知事だそうです。

                                


 (29) 塩蔵下の石垣
        背後の高石垣がせり出してきたため、補強の目的で元禄年間(1688〜1703)に築かれました。
        丁寧に面を整えた割石を横積みにして、最上階の石材は隅を丸く加工しているのが特徴です。

                            


 (30) 天守台の石垣
        宇喜多秀家が慶長2年(1597)までに築いた石垣で、加工を施さない自然石を用い高さは14.9m
        です。
        この位置は、岡山の丘のもとの崖面に当たり、石垣の背後はその堅い地山に持たされています。

                            


 (31) 岡山城天守台
        岡山城の天守閣は慶長2年(1597年)に竣工、その外観から烏城(うじょう)または金烏城(きんうじ
        ょう)とも呼ばれ、戦災前は国宝に指定されていました。
        昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲により市街地は焼け野原となり、天守閣は焼失、
        天守台の石垣も焼けて赤く変色してしまいました。
        その後、天守閣は再建され、石垣も一部が修復されたものの、今も焼けて変色したままであり、
        空襲の激しさを伝えています。        平成9年3月   岡山市

   ● 落石ご注意
        天守台は、自然石を用いた野面積(のづらづみ)ですので、外側が隙間の多い石垣となっています
        隙間には小石が詰込まれていますが、石垣と組合っていないため、転落することがありますので、
        ご注意下さい。

                           


                          


                      


 (32) 六十一雁木下門跡
        下の段から直接本段に通じる石段下に建つのが六十一雁木下門(櫓門)です。
        本段御殿に勤める武士以外の者の通用口として使われました。
        石塁の先の上端から本段石垣の中位に櫓門が架けられていました。

                  


 (33) 六十一雁木門横の石塁
        関ヶ原合戦後の池田氏が下の段を大がかりに整備した時に築かれた石塁です。
        板状の大石を立てて組み込んだ部分が特徴的。
        石塁の先の上端から本段石垣の中位に櫓門が架けられていました。

                         


 (34) 要害門(高麗門:再建は薬医門形式)

                  


                          


                  


 (35) 多聞櫓手前の石垣

                  


 (36) 本段東側の高石垣(多聞櫓の石垣)
        宇喜多秀家が築いた石垣の隅角を、小早川秀秋が石垣を継ぎ足して直線部に改修した跡が観察
        できます。
        秀家は安定性の高い大形の石材をきちっと積んでいる(左手)のに対し、秀秋は丸みの強い石材を
        粗雑に積んでいます。

                      


                          


 (37) 本段南東の高石垣(干飯櫓の石垣)
        宇喜多秀家が慶長2年(1597)までに築いた石垣で、加工を施さない自然石を用いています。
        隅角は岩盤の高まりに載っているが、西寄りでは石垣の基底が3m近くも埋まっていて、本来の高
        さは15.6mもありました。
        関ヶ原合戦以前の石垣としては全国屈指の高さです。

                       


                          


 (38) 三階櫓下の石垣

                          


 (39) 不明門下の石垣
        右隅は宇喜多秀家期の石垣に被せて造られており、関ヶ原合戦後の小早川秀秋期か前池田期に
        築かれたものとみられます。
        上部は不明門を建てた時に積み足され、中位の一部は天保9年(1838)に崩落して修理を受けてい
        ます。

                  


 (40) 鉄門(工事中)
       中の段正面の入口で、切妻造りの櫓門です。
       1階部分にびっしりと鉄板を打った堅固な造りであったためこの名がつきました。
          鉄門工事脇を下ると、広い資材置き場になっています。

                  


                         (画像をクリックすると、大きくなります)


                               ● (入口へ) ●

 

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