(六義園HPからお借りしました) (画像をクリックすると、大きくなります) |
<< 染井門−→山陰橋−→つつじ茶屋−→もみじ茶屋−→吟花亭跡−→尋芳径 >> ● 染井門から入園します。 * (染井門) * (料金所) ● 園内を逆時計回りに。 ● 階段を下りていくと、左側(千里場方面から入った道)の道と合流。 ● 右折し、「ぜん渓流/ぜんけいのながれ」を左側に見ながら進みます。 ● 山陰橋が見えてきます。 山陰橋(やまかげはし) 六義園八十八境八十五 ぜん渓流(ぜんけいのながれ) 六義園八十八境八十六 六義園八十八境には、中国の古典に由来するものもいくつかあります。 昔、「山陰」というところに住んでいた王子猷(おうしゅう。書聖として知られる王義之の子の王 微之)という人が、雪の降った月夜に、戴逵(たいき。王子猷の戴安道)という人に会いに小舟 に乗り「ぜん渓流」に棹差して尋ねていきましたが、門の際まで行ったのに帰ってきてしまい ました。 ある人が、なぜ戴安道に会わないで帰るのかと尋ねると、興が乗ったから来たが、興が尽き たから帰るのだ、会う必要はないと答えた、という故事に基づいています。 中国の故事を集めた物語集「唐物語」で読むことができます。 * (左側)・・・(山陰橋)・・・(右側) ● 山陰橋を渡らず、そのまま直進すると左側に「つつじ茶屋」が見えてきます。 * (つつじ茶屋) ● 標識「←つつじの茶屋」に従い左折。 ● つつじ茶屋 六義園八十八境番外 明治維新後、岩崎家が六義園を所有したとき、庭園を修復すると同時に、岩崎家らしい建物もあち こちに作られました。 その多くは焼失してしまいましたが、唯一明治時代の建物が残っているのが、この先のつつじ茶屋 です。 柱と梁がツツジの木を使って作られている(内3本の柱はサルスベリの木)という非常に珍しい建物 です。 ツツジの木は非常に成長が遅く、柱として使えるような材木を集めるのは非常に難しかったと思わ れます。 全体に老朽化が進んでおり、周囲を別の控え柱で補強して支えていましたが、3月11日の震災で 一部柱がずれてしまったところがあり、安全が確認できるまで、現在は通行をご遠慮いただいてお ります。 ● 「吟花亭跡」に向かいます。 ● 「もみじ茶屋」通過。 ● 吟華亭跡(吟花亭)通過。 吟華亭(吟花亭)・峯花園 作庭当時ここ吟華亭(吟花亭)は、周囲にサクラなどの花が多く、食事をしながら花見を楽しむ 場所として利用されていました。 六義園記には、「楽天が詩に、花開催鳥吟/花多き亭なれば、此詩の心をおもひやりて。」と あります。 岩崎家の時代にも少し位置は変わりましたが、やはり吟花亭という建物がありました。 現在見られる遺構は、そのころのものです。 今は周囲にツツジが多く植えられています。 岩崎家によって植えられたと思われる、明治時代のツツジも残されています。 建物周囲に多くのサクラの花が咲き乱れており、花見に絶好の場所ということが分かります。 少し小ぶりの木に赤い花が咲いていますが、ひょっとしたらこれは皆さんの目の前にあるツツ ジかもしれません。 六義園を作った柳沢吉保は、園内に万葉集などの和歌や中国の古典にちなんだ名所を「八 十八境」としてその由来を「六義園記」に記しました。 八十八境を中心に庭園を狩野派の絵師に描かせたのが「六義園絵巻」(上・中・下巻)です。 このパネルでは、絵巻を園内の描かれた名所の位置で展示しています。 (六義園は、明治時代に三菱グループの創設者、岩崎家の所有となり、その後明治13年 に東京市に寄付されました) 左は、明治時代の吟花亭と思われる写真です。 着物の女性から、華やかな雰囲気が伝わってきます。 建物前の石は、岩崎家の時代に据えられ、今も残る佐渡の赤玉石でしょうか。 ● 尋芳径(はなとうこみち 六義園八十八景の一) 園の西側、吟花亭の辺りはサクラの木が多く、花期には競い咲くヤマザクラにいろどられた。 ここは吟花亭に通う小路なので名付けられた。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |