(3)吉田松陰先生他烈士墓所

       *鳥居をくぐり、墓所へ向かいます。

   ● 吉田松陰先生他烈士墓所
        文久3年(1863)正月。高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三、白井小助、赤根武人等は、松陰先生の亡
        骸を千住小塚原回向院よりこの世田谷若林大夫山の楓の木の下に改葬し、先生の御霊の安住の
        所としました。
        同時に小林民部、頼三樹三郎も同じく回向院より改葬。
        その数日後、来原良蔵の墓を芝青松寺から改葬。 同年11月、福原乙之進を埋葬。
        禁門の変の後、長州征伐の際に幕府によって墓は破壊されたが、木戸孝允等の手により明治元
        年(1868)に松陰先生以下の墓を修復し、更に綿貫治良助を埋葬、中谷正亮を芝清岸院より改葬、
        長州藩邸没収事件関係者の慰霊碑(井上新一郎建立)を建立しました。
        その後、墓所修復の挙を聞いた徳川氏から先生墓所前の石燈籠と墓域内の水盤が、謝罪の意を
        込め寄進された。
        明治8年、来原良蔵妻 和田春子を埋葬。 明治37年、桂太郎が長州藩 第四大隊招魂碑を建立。
        明治42年、遺言により野村靖を埋葬。 明治44年、野村靖夫人野村花子を埋葬。
        昭和33年松蔭先生100年祭にあたり松蔭先生墓域の柵を修復した。

                


                     


   ○ すぐ「木戸孝允寄進の鳥居」がたっています。その先の両側に石燈籠(26)藝備協会が。
        (14)木戸孝允寄進の鳥居
             松陰先生墓域の入口に建てられている鳥居は松陰先生墓所の修復の際、木戸孝允によ
             って奉納された。
             「大政一新之歳、木戸大江孝允」と刻まれている。

        *(左/(26)藝備協会)・・(中/(14)木戸孝允寄進の鳥居)・・(右/(26)藝備協会)

             


   ○ (11)子爵野村靖 墓 天保13年(1842)〜明治42年(1909)
           16歳の時松陰に師事、尊攘の事に奔走する。
           明治になり特命全権大使岩倉具視に随行して欧米各国を視察、帰朝して外務省に出仕。
           神奈川県令、逓信次官、枢密顧問官、フランス外交公使等を歴任し、第二次伊藤内閣内務
           大臣、第二次松方内閣逓信大臣を勤める。
           遺言により松陰先生墓域内に埋葬。享年68歳。
      (12)野村靖夫人野村花子 墓
           明治44年埋葬。

        *(左/(12)野村靖夫人野村花子 墓)・・(右/(11)子爵野村靖 墓)

                          


   ○ (9)来原良蔵妻和田春子 墓
           没後松陰先生墓域に埋葬。明治8年。

                          


   ○ (13)徳川家奉納の石燈籠
           幕府によって破壊された墓所を木戸孝允等が修復した。
           その修復の挙を聞いた徳川氏から謝罪の意を込め石燈籠と水盤が寄進された。
             (葵紋は、奉納当時金色であったと言われているが、現在は風化により判別しにくくなって
              いる)

         *(徳川家奉納の石燈籠は、内側の左右一対)

           


   ○ (13)徳川家奉納の水盤
           幕府によって破壊された墓所を木戸孝允等が修復した。
           その修復の挙を聞いた徳川氏から謝罪の意を込め石燈籠と水盤が寄進された。
             (葵紋は、奉納当時金色であったと言われているが、現在は風化により判別しにくくなって
              いる)

                         


   ● 吉田松陰先生他烈士墓所
        松陰先生の左右には国の為に奔走した志士達の墓が並びます。

                  


                  


   ○ (1)吉田寅次郎藤原矩方 墓 天保元年(1830)〜安政6年(1859)
           長州藩士、号は松陰。年少より大義を唱え、松下村塾を主宰、明治維新の原動力となる有為
           の青年を多数輩出した。
           安政の大獄により刑死。小塚原回向院より改葬。享年30歳。

                                      


   ○ (2)小林民部少輔 墓 文化5年(1808)〜安政6年(1859)
           諱は良典(よしすけ)。民部權大輔。
           鷹司家々士。尊王攘夷の志深く、安政の大獄に連座して獄死。
           小塚原回向院より改葬。享年52歳。
   ○ (3)頼三樹三郎某姓醇 墓 文政8年(1825)〜安政6年(1862)
           儒者、本姓は橘、頼山陽の三男。
           尊王の大義を唱え安政の大獄により刑死。 小塚原回向院より改葬。享年35歳。
   ○ (8)長州藩邸没収事件関係者慰霊碑
           禁門の変の後、長州は各所の出先機関などが没収され、江戸藩邸も没収された。

       *(左/(2)小林民部少輔 墓)・・(中/(3)頼三樹三郎某姓醇 墓)
                                      ・・(右/(8)長州藩邸没収事件関係者慰霊碑)

                                     


   ○ (4)来原良蔵多々良盛功 墓 文政12年(1829)〜文久2年(1862)
           長州藩士。
           尊王攘夷を唱え横浜の外人襲撃を謀ったが、藩世子に過激を戒められ切腹。
           芝青松寺より改葬。享年34歳。
   ○ (5)福原乙之進大江信冬 墓 天保8年(1837)〜文久3年(1863)
           長州藩士。 討幕を策し、江戸刈谷藩邸にて古河藩兵に襲われ自刃。
           此の地に埋葬。享年27歳。
   ○ (6)綿貫治良助 墓 天保7年(1836)〜元治元年(1864)
           諱は直秀、長州藩士。 禁門の変により江戸長州藩邸没収の際幕吏と争い自刃。
           此の地に埋葬。享年29歳。

       *(左/(6)綿貫治良助 墓)・・(中/(5)福原乙之進大江信冬 墓)
                                         ・・(右/(4)来原良蔵多々良盛功 墓)

                                     


   ○ (7)中谷正亮源實之 墓 文政11年(1828)〜文久2年(1862)
           長州藩士。 松陰なきあと松下村塾を監し、義挙を画策したが、江戸にて病死。
           芝清岸院より改葬。享年35歳。

                          


   ○ (10)長藩第四大隊戦死者招魂碑
           長州藩第4大隊の戦士者招魂碑。  明治37年桂太郎によって建立。
           桂太郎は慶応4年に長州藩第四大隊二番隊司令を命ぜられている。

                               



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