「伏姫籠穴」の門をくぐり、階段を上ります。
進んで行くと左側に東屋があり、階段の先に木造の舞台のようなものが見えます。
舞台を囲む柵の柱には8つの珠があり、それぞれに八犬士の名前が刻まれています。 「伏姫籠穴」についての看板もあります。
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(1)・・・(仁/犬江新兵衛仁・・・・いぬかいしんべえまさし) (2)・・・(義/犬川荘介義任・・・・いぬかわそうすけよしとう) (3)・・・(礼/犬村大角礼儀・・・・いぬむらだいかくまさのり) (4)・・・(智/犬阪毛野胤智・・・・いぬさかけのたねとも)
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(5)・・・(忠/犬山道節忠与・・・・いぬやまどうせつただとも) (6)・・・(信/犬飼源八信道・・・・いぬかいげんぱちのぶみち) (7)・・・(孝/犬塚信乃戍孝・・・・いぬづかしのもりたか) (8)・・・(悌/犬田小文吾悌順・・いぬたこぶんごやすより)
● 伏姫籠穴について 伏姫籠穴はいつ、だれの手により、掘られたものなのか・・・・? それは今なお、謎のままである。 伏姫籠穴の「籠穴」という言葉は、多くの文献により、「籠窟」「岩窟」「祠」「洞窟」など、さまざまな言い 方がなされていることはおもしろい。 さらに不思議なことは、伏姫も八房も文学の中に登場する架空の主人公であるはずであるが、現実に こうして伏姫籠穴が我々の眼前に存在する事実を、私達はどのように理解すればよいのか、まことに 神秘的であり幻想的と言えよう。 物語に書かれた空想の世界と、現実との狭間に立つとき、伏姫籠穴は私達に何を語りかけようとして いるのだろうか・・・・。 ● 文学的考察 「南総里見八犬伝」は、九輯、九十八巻、百六冊からなる膨大な長編小説である。 作者の滝沢馬琴が四十八歳の文化十一年に五冊を出版し、加えて七十五歳の天保十二年に第九輯 の第四十六巻から第五十三巻を出版に至る、実に二十八年の歳月を経て世に発表され完成を成した 滝沢馬琴の円熟した技と、渾身の努力とを傾注した作品であり、江戸文学を代表する一大雄編といえ る。また近世日本文学において屈指の傑作とも言える。 前田愛氏が書かれた八犬伝の研究著書によれば、八犬伝は水滸伝の構成を多く学んでおり、処女と 動物の相姦を配した物類相感の局面など、世界的な名作マクベスをも思わせる文学、と評価をされて いる。 作品の創作時、馬琴の身上には、妻と息子の死、婿の死、自身の両眼失明、世の中の世情不安、嫁 に口授の筆を執らせるなど、地獄のような暗く壮絶な苦労の中で作品は創られた。 こうした作者の苦悩は、そのまま八犬伝物語の根底を流れる理法に繋がっている。 「富山は、馬琴の創造の中にありて、因果の車の軸なり。因果の理法のComplicationを示したるもの は富山洞(とみやまのほこら)のTragedyにして、富山はこの理法をあらわしたる舞台なり」と、北村透 谷は明言する。 「南総里見八犬伝」の構成上、最も重要な意味をもつ場所が、人界を隔て深い狭霧に立ちこめられた ここ富山の伏姫籠穴である。 それは八犬伝物語の世界を支配する原理を潜在的に内包する幻想的空間がここの場であるからだ (注)Complication・・・複雑に入りくむ Tragedy・・・・・・悲劇 ● 上演史 「南総里見八犬伝」は、映画、演劇、人形劇、テレビドラマなど、さまざまな分野で語られてきた。 中でもわが国の伝統芸能である歌舞伎では古くから上演されてきた。 「南総里見八犬伝」初めての劇化は、天保五年十月で大阪若太夫芝居の「金花山雪曙」が上演され た。 江戸時代の富本舞踊劇「咲梅の八房」、明治二十二年中村座初演の「仇名草由縁八房」などは、伏 姫が八房に引かれて籠穴に至る芝居として、演劇史に書き残されている。 常盤津「八犬士誉の勇猛」は、富山の事件を上下に分け語られている。 映画史では、昭和二十九年東映「里見八犬伝」昭和三十二年新東宝「妖雲里見快挙伝」などがあげ られる。 参考文献 国立劇場上演資料集312 |