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<<旧覆堂−→西谷坊/大長壽院−→釈迦堂>> ● 旧覆堂 重要文化財 正応元年(1288)の棟札より、鎌倉幕府によって金色堂の修復が行われ、覆堂が建てられたと考えら れてきた。 近年の調査では、金色堂建立後50年ほどで簡素な覆屋根がかけられ、増改築を経て室町時代中期 (16世紀)に現在の形になったものとみなされる。 昭和38年(1963)、新覆堂の建築にともないこの場所に移築された。 昔日は鞘堂(さやどう)と称していた旧覆堂は、金色堂全体をすっぽり上からかぶせる容器のように作 られた。 木造建造物で、写真で金色堂(木立の坂上の堂図)として紹介されていたものは、実はこの旧覆堂で ある。 現在のコンクリート製の覆堂が完成するまで約680年余り金色堂を守ってきました。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() (1)奉建寳塔疑藤原秀衡公源義経辨慶八百年遠忌菩提舎也 (2)固攝十界諸衆生 同入無生證佛智 (3)告昭和六十一年四月廿日中尊寺 (4)願此香奉 十方以為微妙光明壹 (間違っているかもしれません) * (1)・・・(2)・・・(3)・・・(4) ![]() ![]() ![]() ![]() 平泉旧市街 佐藤醇吉作 図は平泉全盛時代の市街を示したもので左方に疎らに散点する建物は御蔵場、兵庫等です。 市街を距てて聳える山は東稲山で、その麓を流れるのは北上川。 (昔北上川は東稲山麓を流れ日高見川といわれました) 又中尊寺山麓左方に流れるのは衣川で、当時大田川に合わしたのち北上川に注ぎました。 東稲山から付近の一帯に櫻を植え、花季になれば満山白雪の様に、落花繽紛として北上川の水面 に時ならぬ雪を散じました。 秀衡将軍奥羽の将士を召して花見の宴を催し亦、広く一般庶民に解放して享楽の地としたといわれ ています。 みちのくに旅した西行法師も 「ききもせず束稲山のさくら花 吉野の外にかかるべしとは」 と詠じました。 ![]() ![]() ![]() 義経公秀衡将軍対面 五味清吉作 判官義経公平家討伐の後、梶原景時の讒訴により兄頼朝の怒りに触れて鎌倉の追捕急のため身 のおきどころもなく弁慶その他重臣と共に山伏を粧うて都を落ち、平泉伽藍の御所に着いたところで 秀衡公恰も慈父のように温情至れり尽せりで親ら迎えて長い旅の辛酸を慰めました。 曾ては三軍を叱咤し、平家追討の殊勲を樹てた身が、今や浪々の身となって山河千里馴れぬ旅路 に窶れ果てた判官公、さきに公があに頼朝公の旗挙げに走せ参うとするのを諌止して出征の不可を 説いたのでありましたが、秀衡将軍今日目の前に見て両者の心情互い尽ない涙を胸に秘めた事だ ったでしょう。 ![]() ![]() ![]() 金売吉次 吉川保正作 吉次は秀衡将軍の時奥羽の鉱山を採掘し金銀を商った人で、年々京都に往来し、都の文化や物資 を平泉に移入しました。 吉次は奇才人にすぐれて秀衡公の意をよくわきまえて、幼い牛若丸を鞍馬寺から遥に誘って秀衡将 軍の許に同行しました。 図は吉次が京都から平泉の宿駅に着いた光景を冩したもので、吉次は一商人でしたが京都の文物 を奥州に移入した殊勲者として後年秀衡将軍は挙げて士分に取りたてて、衣川のほとりに居館を与 えて三条吉次信孝と名乗らせたと伝えられています。 * (画像は失敗しました) ![]() ![]() ● 西谷坊 大長壽院 當坊中尊寺 塔中之一也 御本尊大日如来 元三大使安置 祈祷申受候 當主 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ● 釈迦堂 ![]() ![]() (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |