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<< 夕焼小焼館 中村雨紅展示ホール(1) >> ● 夕焼小焼館 八王子市上恩方町出身で、童謡「夕焼小焼」の作詞者・中村雨紅に関する資料の展示及び、写真家 ・前田真三の写真展を行っています。 ● 中村雨紅展示ホール ● ● 「夕焼け小焼け」の作詞者−中村雨紅 夕焼小焼 夕焼小焼で日が暮れて 山のお寺の鐘が鳴る お手てつないで皆帰ろ 烏と一緒に帰りましょ 子供が帰った後からは 丸い大きなお月さま 小鳥が夢を見る頃は 空にはきらきら金の星 * ふる里・恩方 ふる里に思いをはせた晩年 大正12年4月9日、本城千代子と結婚。 生涯に渡る最愛の伴侶をえたのだが、仕事面では波乱があった。 中村雨紅の実践する自由教育的な活動は、必ずしも周囲の理解を得られず、雨紅は創作意欲 を失いつつあった。 そんな雨紅に手を差し伸べてくれたのが、神奈川県立厚木実科高等女 学校(後の厚木高等女学校で現在の厚木東高等学校)校長の長沢恭治氏であった。 雨紅は、昭和2年に厚木におもむいてから昭和47年の逝去に到るまで後半生を厚木で過ごす。 厚木に住んでも、雨紅の創作の原点は、終生ふる里・恩方であったという。 (右画像/左上)還暦の頃の書斎における雨紅 (右画像/右上)かつての恩方の典型的な農村風景。 「夕焼け小焼け」はこうした風景から生れてきた (右画像/左下)上恩方町大久保の辺りを威風堂々走る高尾自動車のT型フォード車 (昭和7年) (右画像/右下)西東京バスの「夕焼小焼」バス停。 雪が降り厳しい寒さに見舞われる。 * 青年時代 中村雨紅(本名・高井宮吉)は明治30年2月6日、東京府南多摩郡恩方村の宮尾神社で、父高井丹吾 母シキの次男として生れた。 宮尾神社の宮司、そして北辰一刀流の使い手でもあり厳格であった 父丹吾、優しいジキのもと、雨紅は育つ。 明治44年恩方村報恩高等小学校を卒業し、東京府立青山師範学校に入学する。 時節がら軍隊式であった寮生活に反発しつつも、大正5年に青山師範学校を卒業し第二日暮里小学 校の教諭となる。 この小学校で、後に妻となる本城千代子と出会っている。 その後、大正7年生徒数の急増から第三日暮里小学校が開校し赴任する。 (右画像/左)師範学校入学の頃の雨紅。明治44年4月(14歳) (右画像/右上)日暮里での教師時代に子どもたちと。 (大正5〜13年、子供達の情操教育のために回覧文集を作ったりした) (右画像/右下)東京府立青山師範学校で。 (2列目右から3番目、明治44年〜大正5年) * 子どもの情操教育を 第三日暮里小学校では教育環境がかんばしくないということもあり、雨紅は同僚と共に情操教育のた め「童謡童話運動」を始めている。 当時の子供たちの様子について雨紅は次のように書き残している 「・・・近所の火葬場へオモライに行くあめに、児童の大半が授業中いなくなる事や、前の店先から牛肉 や葱を盗んで、生のまま校庭の片隅で、ぱくつく。正面やその外正しい出入り口からは決して出入りせ ず、からたちの垣根の間から、あるいは窓からという工合です。・・・(以下略)」 (「夕焼け小焼け」を作詞する頃「教育音楽」昭和31年8月号第11巻第8号所蔵) (右画像/上左)二月二十二日 頭がよくって 高文や 判検事に なるばかりが 国家へ尽くす 所以でもなければ 亦 格別豪い理でもないのに 近頃 官界へ 首をつっこまねば 人間でない様な 思い違ひをして居る奴が ひどく殖えたとは 驚かざるを得ぬ おもしろい 思潮であるが 僕は未だ 「宿題」になってゐる これは大正6年正月から2月24日まで雨紅がつづった日記「愚感・そ乃ひそ乃日」の一節。 師範学校を卒業し教職について、初めて迎えた正月から日記をつづっている (右画像/上右)後列左から雨紅の兄・琴次、母・シキ (右画像/下)教諭として生徒指導にも熱心。熱血教諭のようであった。 * 児童文学の隆盛とともに 大正時代後半は、第一次世界大戦や米騒動など、世の中が騒然とする中、「赤い鳥」や「金の船(後 に「金の星」に改称)」などの児童文芸誌が芸術性を求めて発展してゆく。 大正10年、「金の船」に高井宮のペンネームで雨紅の作品「お星さん」などが掲載される。 大正12年には、雨紅作謡、黒澤隆朝作曲で新曲童謡「もぐらもち」そ発刊。 同年、不朽の名作「夕焼け小焼け」も発表されるが、発刊もろくにしないうちに関東大震災のため、い っさいが灰になってします。 わずかに残った13部ばかりの楽譜が、人から人へと歌い広めたれていった。 また、雨紅はこの年、漢学者本城問亭(ぶんてい)の次女千代子と結婚。 翌13年には長男喬が誕生する。 腹太鼓 狸の小父さん腹太鼓 プックリ脹れた腹太鼓 坊やにチョックラ貸しとくれ 大事な大きな腹太鼓 ウッカリ貸したら破かれる 後では買えない貸されない。 作曲、黒沢隆朝。大正12年新作童謡「もぐらもち」に発表。昭和8年放送 お星さん キラキラお星さん ゆうべも キラキラ こんやも キラキラ 御苦労様よ 大正10年2月号「金の船」に掲載された。 このペンネームは高井宮 田舎 裏には枇杷の木 夏蜜柑 つくつく法師も 鳴いてます。 葡萄も伸び伸び 這い上り 田舎は涼しい いい気持。 唐黍畑も 見えてます お背戸の古井戸 撥釣瓶(はねつるべ) 田舎は嬉しい 懐かしい 峠の傘松 閻魔堂 何時でも夕立 通り雨 みんな昔の ものばかり 青田にゃ ころころ 雨蛙 田舎は恋しい 懐かしい。 大正13年作。 山本正夫作曲 蟻の兵隊 蟻の兵隊 勢揃い お穴の城から這い出して 音もたてずに進んでく。 ブンブン小蜂を攻めましょうか それとも畑で いばってる 芋虫大将 攻めましょか。 いえいえ それは よしましょう 生きてるものは かわいそう 死んでる蚯蚓(みみず)にかかりましょう 大正13年作 寒い日 遠いお山に 雪が来て 野原は枯草 霜柱 お馬は厩(うまや)で 顫(ふる)えてる 囲炉裏の焚火が懐かしい。 北風吹き吹き日が暮れて 今夜もこんなに寒くては 水瓶などにも 手桶にも きっと 氷が張るでしょう。 昭和3年作 夜道 山から里へ お使いに 後先見い見い ビックリコ たった一人で 来は来たが 泣いてもお家は まだ遠い 帰りの途中が 日が暮れて お化(ばけ)の出そうな 峠道 夜鳥もホウホウ 鳴き出した 急げば後から 追いかけて 何時か来たような 見たような コッソリ誰かが 来るような 峠の細道 怖い道 止まれば音の 影もない。 十三夜の月 今私は 眺めていますのよ 貴方の お好きだとおっしゃった そして私の好きな 十三夜の月を。 耐まらなく 貴方が恋しくなりました。 今私は お月さまに お話をしていますのよ 私の心の中を 貴方の まだ御存じないその事を * 夕焼け小焼け 「私は東京から故郷への往復に八王子から実家までへの凡四里をいつも徒歩(その頃はバスなど の便はありません)でしたので、よく途中で日が暮れたものです。 それに幼い頃から山国での、 ああいう光景が心にしみ込んでいたのがたまたまこの往復のある時に、郷愁などの感傷も加わっ て、直接の原因になって作詞されたのではないかと思っています。・・・(以下略)」 夕焼小焼 夕焼小焼で日が暮れて 山のお寺の鐘が鳴る お手てつないで皆帰ろ 烏と一緒に帰りましょ 子供が帰った後からは 丸い大きなお月さま 小鳥が夢を見る頃は 空にはきらきら金の星 大正8年作。大正12年、福井直秋先生から依頼されて作品を提出。 文化楽譜「あたらしい童謡その一」に掲載された。 作曲は草川信。ただしこの本は出版直後、震災のあい少部数を残して大半焼失した (左) 大正11年頃の雨紅(大正10年には「金の船」に作品が掲載され、12年には新曲童謡「もぐら もち」を発表するなど、文学的に高揚した時期であった) (中左) 「金の船」の代表詩人、野口雨情。 「雨紅」の筆名も雨情に由来している (中右) 「夕焼け小焼け」の作曲者・草川信(1893〜1948、長野県出身。児童文 芸誌「赤い鳥」で 童謡の作曲などを手がけた。代表作「風」「春の唄」 など) (右) 「童謡童話運動」華やかなりし頃の出版物。装丁も情趣に富んでいる (画像をクリックすると大きくなります) ● (入口へ) ● |