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<< 夕焼小焼館 中村雨紅展示ホール(3) 前田真三ギャラリー >> * 詩人、そして教育者として 昭和元年12月に雨紅は神奈川県立厚木実科高等女学校教諭となり東京から厚木町に移転した 翌2年、長女緑が生れるが、時代は次第に戦争の重苦しい雰囲気に包まれてゆく。 そして昭和20年の敗戦。物心混乱とした中、昭和21年に長男喬が22歳の若さで急逝してします 厚木に移ってからの雨紅は、童謡・詩などの創作は続けるが、高校の国語教師として、本名の高 井宮吉でとおし続けた。 昭和24年、雨紅は52歳で厚木東高校を退職する。 飾ることなく、ユーモアのある優しい先生だったとの回想も多い。 (左) 厚木高等女学校時代(昭和6年) (中) 昭和31年9月30日、県立厚木東高校の創立50周年記念の体育祭で、紅雨の還暦を祝い、 生徒全員が「夕焼け小焼け」を歌いながら踊り、花束を贈って健康を祝った (右) 日の出村大久野中学2年生・宮田三郎君から雨紅に届いた手紙 * 厚木へ 父として 幅一間半の縁側がお気に入りでした (談・白井禄郎さん、緑さん) 私たち夫婦は、昭和24年に結婚して、昭和43年まで、父の厚木の家で一緒に暮らしました。 父は川を眺めるのが好きでしたので、よく相模川に一緒に散歩に出掛けたのを思い出します。 父は、厚木の家に当時としては珍しい幅一間半(約2.7メートル)の縁側を作りました。 そこは大のお気に入りの場所で、日向ぼっこをしたり、机やイスをおいて童謡を作ったりしてい まいた。 ポカポカと暖かいところでしたね。 いろいろな話の中では、やっぱり自分が生れた恩方の話が多かったです。 宮尾神社の歌碑のことを、「この碑は、ちょうど私の生れた座敷のあった場所に建っている」 など、当時の様子も話してくれました。 ゆくゆくは故郷へ帰りたい、とよく言っていました。 (広報はちおうじ 平成9年9月1日号) (右画像) 自宅付近で喬さん(5歳)と緑さん(2歳)。 (雨紅の自宅の周りは当時、一面田んぼで、夏には蛍がよく飛んでいた) 先生として 生徒の居眠りも許してあげる優しさが (談・羽生駒子さん) 私は昭和6年の卒業生です。 当時、厚木高等女学校は4年制。 高井先生(雨紅)は3・4年生の担任でした。 国語の先生で、とても優しく、もの静かな方で、ご自分が詩人であるということは生徒に は教えませんでしたよ。 当時は、農家の子どもが多く、繁忙期はみな家の手伝いで疲れていました。 授業中も居眠りする人がかなりいて、そんな時でも「疲れているんだから寝かしてやりな さい」と言って、起こそうとしている生徒を止めるほど優しい先生でした。 (広報はちおうじ 平成9年9月1日号) (中画像) 厚木の自宅で (雨紅は、広告の裏などによく詩を書きつけては障子に貼って推敲していたという) (右画像) 相模川のほとりで(雨紅は川を眺めるのが好きだった) * 各地で夕焼け小焼けの記念碑が 昭和31年、雨紅の還暦を祝って、生誕の地・宮尾神社境内に夕焼け小焼けの碑が建てられた。 雨紅は、「こんな立派な碑を建ててもらったら、墓などいらない」と涙していたという。 その後、「夕焼け小焼け」の作曲者・草川信の故郷である長野県内各所、八王子、厚木などにも ゆかりの碑が建てられる。 (右画像) 昭和36年、「ねんねのお里」の碑が長野市旭香園に建つ。 この2枚の写真は裏手の旭山城跡に登った時のもの (中画像) 「夕焼小焼」の建碑のお礼に雨紅が作詞した「恩方音頭」を踊る地元恩方の人々 (右画像) 昭和31年9月10日、生誕地・宮尾神社に「夕焼小焼」の碑が建つ。 この日、雨紅作詞の「恩方音頭」が披露され、車人情の公演も行われた ● 前田真三ギャラリー(八王子市下恩方町出身の写真家) ● 平成13年8月に常設ギャラリーをオープンしました。 北海道の美瑛・富良野の丘やふるさと八王子の風景を撮影した素晴らしい作品の数々をご覧ください 毎年3回の展示替を行っています。 (画像をクリックすると大きくなります) ● (入口へ) ● |