(画像をクリックすると、大きくなります) << 大天橋−→智恵の松−→与謝野寛・晶子夫妻の歌碑−→恩賜の碑−→ −→岩見重太郎試し斬りの石−→雲井の松−→標注(松並木終点まで2.0km)−→ −→休憩所−→式部の松−→蕪村の松−→岩見刀の由来−→岩見重太郎仇討ちの場 >> ● 大天橋 「小天橋」と呼ばれる松並木と「大天橋」と呼ばれる松並木を結ぶ橋で、内海(阿蘇海)と外海「宮 津湾(与謝の海)」の海水が出入りし循環しています。 * (大天橋の左側) * (大天橋の右側) * (大天橋で振り向くと) (全景は、パノラマでご覧ください) ● 大天橋を渡ると左側に茶店・更衣室などがあり、右側は海水浴場です。 * (シャワーです) (全景は、パノラマでご覧ください) ● 智恵の松 一本の松が三又になっていて「三人寄れば文殊の知恵」から引用された. ● 与謝野寛・晶子夫妻の歌碑 与謝野夫妻 昭和5年5月天橋立にて詠める歌の自筆を拡大す 小雨はれ みどりとあけの虹ながる 与謝の細江の 朝のさざ波 寛 人おして 廻旋橋のひらく時 くろ雲うごく 天の橋立 晶子 与謝野寛・晶子夫妻は、寛の父礼巌が加悦出身ということもあり、天橋立にたびたび足を運ばれま した。 昭和5年5月、丹後に8泊のうち天橋立に2泊して、寛45首、晶子60首の短歌を遺されています。 昭和10年寛逝去後、傷心の晶子が天橋立を訪れたのが昭和15年でして、帰京後、発病し、以後 旅をすることもなく昭和17年逝去されました。 最後の吟遊の旅が当地、天橋立でした。 夫妻が多くの歌を遺されたこの天橋立に歌碑を建立することが私たちの責務ではないかと考え、 多くの天橋立を愛する人、与謝野夫妻に思いを寄せる人達のご協力の下に、ここに歌碑を建立す る運びとなりました。 寛・晶子夫妻の歌をよみ、お二人を偲んでいただければ嬉しく存じます。 平成18年(2006)7月7日建立 天橋立を守る会 歌碑建立発起人会 ● 恩賜の碑 昭和25年ジェーン台風の災害復旧に向け天皇陛下から励ましのお言葉を頂いたことを記念して建 立した記念碑です。 ● 岩見重太郎試し斬りの石 ● 名勝 天橋立 大正13年9月建設 史蹟名勝天然記念物保存法に依り 大正11年3月 内務大臣指定 ● 雲井の松 雲の合間に座るが如くという意味でそびえ立つ様を表している。 ● 休憩所・標注(松並木終点まで2.0km) ● 式部の松 赤松(女松)のほっそりとした美しい姿であることから、和泉式部に準えた。 ● 蕪村の松 松の絵を描いた与謝蕪村にちなみ命名された松。 * (式部の松)・・・(蕪村の松) ● 岩見刀の由来 寛永9年(1633)9月20日剣豪岩見重太郎は宮津城主京極高広に乞うて、父の仇広瀬・鳴尾・大川 の三人を天下晴れて天の橋立濃い松(あつまつ)の地でみごと打ち果たし本懐をとげる。 そのご岩見重太郎の武勇を慕う人によって橋立神社に岩見刀が奉納されたが、戦後の混乱のうち に行方不明となる。 それをおしみて磯清水亭・主 昭和27年3月大岩見刀(木製)を作りかかげる。 ● 岩見重太郎仇討ちの場 剣豪 岩見重太郎 岩見重太郎は、講談などで有名な伝説上の剣豪で、江戸時代の初めのころに活躍したと伝え られる。 重太郎は、父の仇の広瀬軍蔵・鳴尾権蔵・大川八左衛門を追って宮津にやってきたが、仇の 三人は藩主京極家にかくまわれていた。 やがて藩主の許可を得て、ここ天橋立の濃松の地で、三人を討ち取り本懐を遂げたという。 また重太郎には、毎夜、天橋立で通行人を襲っていた元伊勢籠神社の狛犬の足首を切りそ の夜行を止めたという伝説も残されている。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |