(画像をクリックすると、大きくなります) << 磯清水−→標識(←天橋立駅 1.0km ・智恩寺0.7km/傘松公園3.4km・籠神社2.5km→)−→ −→大砲履歴−→蕪村の句碑−→天橋立神社(天橋立大明神) >> ● 磯清水 この井戸「磯清水」は、四面海水の中にありながら、少しも塩味を含んでいないところから、古来不 思議な名水として喧伝されている。 そのむかし、和泉式部も 「橋立の松の下なる磯清水 都なりせば君も汲ままし」 と詠ったことが伝えられているし、俳句にも「一口は げに千金の磯清水」などともあることから、橋 立に遊ぶ人びとには永く珍重されてきたことが明らかである。 延宝6年(1678)、時の宮津城主永井尚長は、弘文院学士林春斎の撰文を得たので、ここに「磯清 水記」を刻んで建碑した。 この刻文には 丹後国天橋立之磯部有井池清水涌出、蓋有海中而別有一脈之源乎、 古来以為勝区呼日磯清水、 云々 とある。 湧き出る清水は今も絶えることなく、橋立を訪れる多くの人々に親しまれ、昭和60年には環境庁 認定「名水百選」の一つとして、認定を受けている。 宮津市教育委員会 ● お願い この手水鉢には「賽銭」を入れないでください。 お志は、後方の橋立神社の「賽銭箱」にお入れください。 磯清水や神社の修復の浄財として使わせていただきます。 橋立神社信徒会 ● 標識(←天橋立駅 1.0km ・智恩寺0.7km 傘松公園3.4km・籠神社2.5km) ● 大砲履歴 この大砲は海軍思想普及のため大正12年2月5日海軍大臣より下付されたものです。 1、名称 40口径案式15cm砲身 2、製造会社 明治35年イギリス、アームストロング 3、砲身価格 1万六千円 4、重量 約5トン 5、長さ 6m40cm 8、発射弾飛行時 38秒 6、砲丸重量 45kg 9、弾丸火薬 一発価格100円 7、発射弾有効距離 12,500m 10、元搭載艦名 軍艦春日 ● 蕪村の句碑 『はし立や松は月日のこぼれ種』 蕪村は、俳人、画家として名高く、大阪市豊中区の生まれとされています。 幼い頃、与謝野町加悦の施薬寺で学び17歳で上京し絵と俳句を学び、1754年39歳の時、京 都から宮津見性寺の住職・竹渓を訪ね三年余り宮津に住みました。 画業では田楽茶屋図はじめ親交の深い3人の俳友を画いた三俳僧図など十数点に及んでい ます。 ● 天橋立神社(天橋立大明神) 天橋立神社の所在する場所は天橋立の濃松(あつまつ)と呼ぶ地点に当たる。 近くに真水がわくことから磯清水と呼ばれる井戸があり、磯清水神社ともいわれてきた。 当社の祭神は、明治時代の京都府神社明細帳では伊弉諾冊命(いぎなぎのみこと)とされ、江戸 時代の地誌類では、かつては本殿の左右に祠があり、本殿の祭神を豊受大神、向かって左は大 川大明神、右は八大龍王(海神)とする。 当社は智恩寺境内にあったものを天橋立内のこの地に移したという説がある。 確かに江戸時代前期の天橋立図屏風には、当地に社殿風の建物が描かれるとともに智恩寺境 内に鳥居が描かれていて社殿が存在する。 一方、南北朝期の「慕帰絵詞/ぼきえことば」に描かれた天橋立の図や雪舟筆「天橋立図」には すでに当地に社殿が描かれており、江戸時代中期の「与謝之大絵図」(享保9年/1724)や「丹後 国天橋立之図」(享保11年/1726)には当地に「橋立明神」の文字も記されているため、中世半ば 以降は当地に鎮座すると考えられる。 いずれにしても、天橋立は江戸時代には智恩寺の境内地(寺領)であり、天橋立神社も智恩寺に 属する神社であった。 現在の社殿は明治45年(1907)の再建になる。 当社の参道は社殿から南西方向に進み、阿蘇海に達する地点に石造りの鳥居が立つ。 鳥居の石材は花崗岩で形態は明神型、「吉津村誌」によると慶安4年(1651)の造立、願主は智 恩寺住持南宗ほかの銘が記されているが、鳥居表面の風化が著しく、現在これを読むことはで きない。 宮津市教育委員会 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |