(2)扇塚→花塚

                                 


    * (ろ)初代花柳寿輔句碑・・・(は)扇塚・・・(に)初代中村吉右衛門 句碑・・・(ほ)榧樹碑

       (へ)花塚・・・(と)河竹黙阿弥顕彰碑・・・*檜前の馬牧


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  (ろ) 初代花柳寿輔句碑
         雷は 田町をよけて 鳴りわたる
    初代花柳壽輔略傳
         出生・・文化4年2月19日、芝・新明にて出生。
         6才・・文政9年、四世西川扇藏の許に入門し舞踊修業の道に入る。
         8才・・文政11年、七世市川団十郎の鑑識に叶い市川鯉吉の芸名にて舞台を踏む。
        19才・・天保10年、旧師西川扇藏の許に復帰し、西川芳次郎として振付師の第一歩を踏み出す。
        25才・・吉原の玉屋小三郎より俳号の「花柳」なる二字を与えられ、以後花柳芳次郎と稱す。
         爾後・・七世市川団十郎が嘉永2年、当時市川海老藏を名乗り、その俳名「寿海」に因みて「壽」の
              字を贈られ、29才にして初めて花柳壽助を名乗り、後に「助」を「輔」に改め、と共に、諸流
              に冠絶して振付の第一人者として謳はれる事、実に半世紀。
              その作品は一千五百種を超え、就中「土蜘」 「茨木」「戻橋」「舟辯慶」の如きは不滅の傑
              作と讃られる。
        83才・・明治36年1月28日花柳流の祖としての偉業を樹て、門弟、縁者に見守られ其の生涯を終わ
             る。           浅草観光連盟

                                  


  (は) 扇塚
       扇塚は使い終わった扇を供養する塚です。
    古扇 納め箱
       わたくし達日本舞踊を志すものにとりまして 扇は欠くことの出来ない品でございます
       使い古された扇はどうぞこの箱にお納め下さい
       毎年4月8日にご祈祷の上 扇に感謝のご供養をいたします   花柳流花柳会

                   


  (に) 初代中村吉右衛門 句碑
          「女房も 同じ氏子や 除夜詣」 吉右衛門
              建碑 昭和28年4月21日
       初代中村吉右衛門・・歌舞伎俳優 日本芸術院会員 文化勲章受賞
       明治19年3月24日 浅草象潟町に生まれ 幼少から舞台に立って名声を得 長じて大成し 大正・昭
       和期を代表する歌舞伎俳優となった
       高浜虚子に師事して「ホトトギス」の同人となり 句集も三冊に及ぶ 初め秀山と号したが 後に吉右
       衛門の名前を用いた
       妻千代もまた浅草の生まれ この句の由緒である 昭和14年冬の作 この碑は自詠自筆である
       実名  波野辰次郎   昭和29年9月5日没 享年68       浅草観光連盟

  (ほ) 榧樹碑

    * (初代中村吉右衛門 句碑)・・・(榧樹碑)

                             


  (へ) 花塚
       「濁流」の花道の師、笠翁斉乱鳥の死を悲しんだ弟子たちによって建てられた。
       笠翁斉乱鳥は、享和3年(1803)7月晦日死去。享年88歳。
       浅草本然寺(曹洞宗、現西浅草3-25-3)に埋葬。
       悲しんだ弟子たちが、瓶に花を挿したが、衰える花を惜んで地中に埋め塚とした。
       戦後、昭和31年観音堂裏手東北より移転。
                     建碑 文化元年(1804)3月17日
       「かめに花を挿こと古しへより聞え来れるを近き代には其花をさすにのろ有事と成り其流くさくさに分れ
       ぬ。
       笠翁斉乱鳥其わざを好てこの大城のもとに濁流としなへて弟子あまた有き。
       こその文月つごもり、齢八十餘八にてみまかり給。  浅草本然禅寺に葬ぬ。
       ことし3月17日、かの翁の親しき友垣に弟子の集りて、かめに花をさして手向つ。
       其花のなごりを空しくなさむ事を惜み、はた翁の名の朽さらん事をおもひて、浅草寺の大ひさのみ堂の
       うしろ清らなる所を撰て其花を埋めて花塚と名付て後の世に残しなんとす。
       彼弟子の中、平石氏乱雨翁え残されしほほに笠翁斉の名を残したれば人々共に計りて其事成ぬ其わ
       きかいつけよとこはるるにいなひあへずして記つ。   「文化元年七月千蔭」 浅草観光連盟

                      


  (と) 河竹黙阿弥顕彰碑
       河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)は江戸末期から明治中期まで活躍した歌舞伎の狂言作者である
       文化13年3月江戸日本橋通2丁目4代越前屋勘兵衛の長男として生まれ幼名を吉村芳三郎といった
       若い頃は遊楽生活を送ったが20歳で狂言作者五世鶴屋南北に師事 はじめ二世河竹新七の名を継
       いだ
       天保14年江戸三座が浅草猿若町に移転し終ると間もなく黙阿弥も芝からこの浅草の正智院の地内
       に居を移し 四世市川小団次に多くの新作世話物を書いた
       明治維新後は九世市川団十郎 五世尾上菊五郎 初代市川左団次のために世話物時代物のほか
       舞踏劇などを執筆した
       明治14年古河黙阿弥と改名し その後も劇作を続けた
       作者生活50年 著作は350余編 江戸歌舞伎後半期の第一人者の地位にあり特に世話物を得意と
       したその音楽的効果や味わいは黙阿弥調として知られる
       代表作には「青砥稿花紅彩絵(あおとぞうしはなのにしきえ)(白浪五人男)」のほか 「三人吉三廓初
       買(さんにんきちくるわのはつかい)(三人吉三)」 「天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)
       (河内山)」などがある
       明治26年1月歿 78歳
           昭和43年10月  東京百年記念に台東区が建立する  東京都台東区長 上條貢

  * 江戸・東京の農業 檜前の馬牧(ひのくまのうままき)
       大宝元年(701)、大宝律令で厩牧令が出され、全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、皇
       室に馬を供給するため、天皇の命により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置されました。
       東京には「檜前の馬牧」「浮嶋の牛牧」「神崎の牛牧」が置かれたと記録にあって「檜前の馬牧」は、
       ここ浅草に置かれたのではないかと考えられています。
       浅草神社の祭神で、浅草寺本尊の発見者である、檜前浜成、竹成兄弟の説話から、檜前牧は浅草
       付近であったと「東京市史稿」では推定していて、「浮嶋の牛牧」は本所に、「神崎の牛牧」は牛込に
       置かれたとされています。
       時代は変わり江戸時代、徳川綱吉の逝去で「生類憐みの令」が解かれたり、ペーリー来航で「鎖国
       令」が解けた事などから、江戸に欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明治19年の東京府
       牛乳搾取販売業組合の資料によると、浅草区の永住町、小島町、森下町、馬道と、浅草でもたくさん
       の乳牛が飼われるようになりました。
                平成9年度JA東京グループ  農業協同組合法執行五十周年記念事業

    * (河竹黙阿弥顕彰碑)・・・(檜前の馬牧)

                               



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