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<< 野外展示物(C) 庚申塔・・狐の石造・・地蔵菩薩立像・・三界萬霊塔・・摺臼と搗臼・麦打ちコロ >> 庚申塔 銘文 (正 面) 奉建立 庚申塚 享保十三年 申五月十日 年代 享保十三年(1728) 伝来 この供養塔の本尊は、病魔・病鬼を払い退くとされる六臀三眼・憤怒相の青面金剛で、 三尸(さんし)を模した「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿を踏みつけている。 小野亀善(三軒茶屋1-19-8)が、昭和二十年頃某家よりもらい受け自宅に安置していたも のである。 昭和五十一年八月当館に寄贈された。 当初の設置場所は不明。 狐の石造 銘文 なし 伝来 主神に従属し、その先触れ(みさぎ)となって働く神霊や小動物のことを「使わしめ(神使・ 神令)」という。 狐は、稲荷の使わしめであるが、「伊勢屋稲荷に犬の糞」という江戸の諺の通り、世田谷 の村々でも屋敷神に稲荷を祀ることが多く、これが具象化されて祠の前に鎮座した。 この石像は、昭和五十二年七月に三宿の大江淳一氏から寄贈されたものである。 地蔵菩薩立像 銘文 (左側面) 武州荏原郡瀬田谷領 □内若林村 男同行弐拾六人 (正 面) 宝暦六丙子年 念□講供養仏 八月二□日 (右側面) 是より南 いけがミみち 年代 宝暦六年(1756) 伝来 この地蔵菩薩像は、宝暦六年に若林村の念仏講の人々により建立された。 念仏は西方浄土への往生の業として唱えられるもので、念仏講は、来世すなわち死後に対す る信仰という面が強く、死後の世界の道案内者と信じられていた地蔵像を建立することが多い この地蔵菩薩立像は、現在の常盤橋陸橋付近にあったが、環状七号線施設工事のおり、旧 若林村の名主であった根岸家の敷地内に移され、昭和五十七年、現当主根岸武守氏により 当館に寄贈された。 三界萬霊塔 銘文 (左側面) 南 池上道 発願人 当 村 伝右衛門 (正 面) 天明五巳年十一月 三界萬霊等 西 さ加み(相模)道 (右側面) 北 高井戸宿通り (背 面) 東 江戸道 年代 天明五年(1785) 伝来 三界とは、いっさいの衆生の生死輪廻(しょうじりんね)する三種の世界(欲界・色界・無色 界)をいい、三界萬霊とは、この迷いの世界におけるすべのて霊あるものという意味である。 真宗以外の寺院で、施餓鬼など、広く無縁の有情を供養する際に用いられているが、この 萬霊塔は、道しるべを兼ねている。 旧玉川電車真中駅付近から北側に入った辺りにあったと伝えられているが不詳である。 昭和四十二年に柴田元之助氏から寄贈を受けたものであるが、同氏は昭和初期に、当時 の駒沢小学校校長横溝一清より寄贈されたと伝えている。 摺臼と搗臼・麦打ちコロ 銘文 なし 伝来 摺臼は、上臼と下臼を重ね合わせて上臼を回転させるものである。 接合面に目を切り、その間に穀物などを通して製粉するものである。 搗臼は、上部を刳(く)り、これに穀物などを入れて杵で搗き脱穀や精臼を行った。 これらの臼は、火薬をつくるため焔硝(硝酸カリウム)の原料である硝石などの粉砕に用 いたものと伝えられている。 いずれも松原二丁目大庭信一氏から当館に寄贈されたものである。 麦打ちコロは、牛などで牽いて麦を脱穀したものである。 莚に刈った麦を敷き、この上を転がして実を外した。 大正十四年製で、昭和四十四年に祖師谷一丁目田中良平氏から当館に寄贈された。 平成十五年一月 世田谷区教育委員会 (画像をクリックすると大きくなります) ● (入口へ) ● |