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<< 井伊家墓所 >> ● 「国指定史跡 彦根藩主井伊家墓所 豪徳寺井伊家墓所」 井伊家は、遠江国井伊谷を中心に勢力を持った武士で、戦国期には今川氏の配下にあった。 井伊家二十四世とされる直政は天正3年(1575)、15歳で徳川家康に仕え、慶長5年(1600)の関ヶ原 合戦においては、自ら先鋒を務め東軍の勝利に貢献した。 合戦後、直政は近江国などに18万石を与えられ、初代藩主として彦根藩の礎を築いた。 続く二代直孝も大坂夏の陣で功績をあげ、近江国、下野国、武蔵国世田谷にあわせて30万石を有 する譜代大名の筆頭格となった。 以後、幕末までこの家格は堅持され、藩主は江戸城溜間(たまりのま)に控えて将軍に近侍し、時に は大老職に就き幕府政治に参与した。 寛永10年(1633)頃、世田谷が井伊家所領となったのを機に、領内の弘徳院が普提寺に取り立てら れた。 直孝の没後には、その法号「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなみ豪徳寺と寺号を改め、以後、井伊 家墓所として、江戸で亡くなった藩主や家族がここに葬られた。 墓所の北西角には、豪徳寺中興開基の直孝墓が位置し、そこから南西に直進したところに幕末の大 老、十三代直弼(宗観院殿)墓がある。 直弼墓に至る参道沿いには、藩主や藩主正室らの墓石が整然と並び、豪徳寺の伽藍造営に貢献し た亀姫(掃雲院般・直孝長女)墓がその中央西側に位置している。 墓所内で最も古い墓は、直時(広度院殿・直孝四男)のもので、万治元年(1658)に建てられた。直孝 が没したのは万冶2年で、どちらの墓石も唐破風笠付位牌型で造られている。 以降、豪徳寺に所在する藩主、正室、世子、側室の墓石は、いずれもこの形式で建造された。 また、幕所の北側の一角には、早世した井伊家子息子女らの墓石に混じって、江戸で亡くなった藩 士とその家族の墓石も据えられている。 これらを合わせると、墓所に所在する墓石の総数は300基余になる。 彦根藩主井伊家墓所は、豪徳寺、清涼寺(滋賀県彦根市)、永源寺(滋賀県東近江市)の三ヶ寺にあ り、歴代藩主とその一族の墓が網羅される。 各墓所は、将軍家側近でもあった井伊家の姿を物語り、江戸時代の幕藩体制と大名文化を考える 上で欠くことのできない貴重な遺産であるため、一括で「彦根藩主井伊家墓所」として平成20年3月 28日、国史跡に指定された。 平成20年3月 世田谷区教育委員会 ● 墓所に入っていきます。 ● 彦根城二代藩主 豪徳寺中興開基 直孝公墓所 法号 久昌院殿豪徳天英大居士 ● 井伊直弼墓 井伊直弼は、文化12年(1815)、彦根十一代藩主・直中の第十四子として生まれた。 青年期は部屋住みとして城外の埋木舎(うもれぎのや)に閑居したが、兄・直元の死去により十ニ代 藩主・直亮(なおあき)の跡継ぎとなり、嘉永3年(1850)に十三代藩主となった。 安政5年(1858)4月、大老職に就いた直弼は、天皇の許可を待たず日米修好通商条約に調印し、つ いで、十三代将軍・家定の後継者を紀伊の徳川慶福(よしとみ/後の家茂)とすることで決着をつけた こうした直弼の強い政策に異を唱える者たちを処罰し安政の大獄をはかったが、遂に水戸浪士らの 襲撃をうけ、安政7年(万延元・1860)3月3日、桜田門外で暗殺された。享年46。 令和3年3月 世田谷区教育委員会 (画像をクリックすると大きくなります) ● (入口へ) ● |