(1)亀甲橋→北門

                               


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   ● 亀甲橋(かめのこばし)を渡ります。
        外濠を隔て、市街地である亀甲町と四の丸に架かります。
        四神相応の地にならい、城外北方にある土地を亀甲町、北門を亀甲門と定めたことから、この橋も
        また亀甲橋となったと思われます。
        藩政時代は、戦になると敵の侵入を防ぐため壊される架け橋でした。
           四神相応の地とは、風水思想でいう、東に青龍が宿る川、西に白虎が宿る道、南に朱雀が宿
           る池、北に玄武が宿る山に囲まれた土地をいいます。
           玄武は脚の長い亀に、蛇が巻き付いた形で表現されます。

                              


                  


   ● 北門口
       北門(亀甲門)重要文化財
          移築年代   慶長16年(1611)    二代藩主   津軽信枚(のぶひら)
          指定年月日  昭和12年7月29日   棟   高   12.7m
            弘前城には、現在5棟の城門が残されているが、この北門は、これらの中でも特に規模が
            大きく、また形状も異なり最古の形式を呈する城門である。
            北門は、もと大光寺城(現在の南津軽郡平賀町)の城門を慶長16年二代藩主信枚が築城
            にあたり弘前城追手門として移築再建したもので、昭和33年の保存修理工事に当たって、
            柱などから多数の矢傷跡が発見されている。
            弘前城は、築城以来実戦の痕跡をとどめる貴重な城門である。
            また、棟の両端にある鯱も他の門のものより古い形式のものである点、矢狭間、鉄砲狭間
            のない点など、見るべきところが多い門である。          弘前市

                  


                  


                             


       この傘立てに使用している鋳物の甕(かめ)は、四代藩主信政が元禄12年(1699)に弘前城三の丸に
       建設した三の丸御殿の跡地から出土した素焼きの大甕を模して、約三分の二に縮小し作製したもの
       です。
       この大甕は、大きさに比して極めて薄手でありその用途は、水甕などの貯蔵用としてよりも能楽堂や
       舞台の床下に埋設し音響効果を高めるために使用した甕に類するものであろうと考えられています。
       なお、この甕の前面のある紋は七つ葉の杏葉(ぎょうよう)牡丹といい津軽家の家紋であります。

                         


   ● 北門を入るとレクレーション広場が広がり、その先に「賀田橋」が。
        賀田橋(よしたばし)
          二階堰を隔て、三の丸と四の丸に架かります。
          藩政初期、賀田橋から三の丸方向には、大浦城(賀田城)から移築された賀田門(三の丸北門)
          がありました。
          賀田門の跡は今なお残りますが、賀田橋の名はこの門に由来すると思われます。
          藩政時代は、戦になると敵の侵入を防ぐため壊される架け橋でした。

    * (レクレーション広場)・・・(賀田橋)

                  



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                               ● (入口へ) ●

 

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