(画像をクリックすると大きくなります) << 鷹丘橋−→名木/シダレザクラ−→本丸戌亥櫓跡−→名木/ウラジロモミ−→ −→鷹揚園記碑−→御金蔵跡−→御日記蔵跡−→本丸未申櫓跡 >> ● 鷹丘橋を渡り本丸方面へ 内濠を隔て、本丸と北の郭に架かる橋です。 弘前城は、1628年(寛永5年)に改称される以前は、鷹丘城(高岡城)と呼ばれていました。 鷹丘橋という名は、由緒ある城の旧名にちなんだものと思われます。 この橋は1670年(寛文10年)、4代藩主信政)が母の屋敷のある北の郭を行き来するために架けた とされます。 藩政時代は、敵の侵入を防ぐため、戦時には壊される架け橋でした。 * (鷹丘橋) ● 弘前市古木名木 種名 シダレザクラ(バラ科) 幹周 250cm 樹高 約7.2m 推定樹齢 90年以上 弘前公園のサクラ管理の特徴は、毎年欠かさず行う剪定と施肥による若返り法である。 「サクラ切る馬鹿、ウメ切らぬ馬鹿」という諺のように、サクラは切ってはいけないものと考えら れていたが、この樹は昭和35年に、樹勢が弱っていたものを、リンゴのように園内で初めて強 剪定を施した樹で、その後樹勢が回復したため、リンゴ栽培技術を参考に園内全てのサクラ樹 を剪定するようになった記念すべきサクラである。 現在、サクラのせんていは、施肥とともに寿命を延ばすために欠かせない管理作業の一つとな っている。 ● 本丸戌亥櫓(いぬいのやぐら)跡 城郭に取り付く敵を攻撃したり物見のために造られ、防弾・防火のために土蔵造りで、元禄3年(16 90)に柿葺(こけらぶき)の葺替えが終了している。 また同9年には櫓下にあった番所の修復も行われており、北の郭から櫓台下、本丸への通路があ った。 ● 弘前市古木名木 種名 ウラジロモミ(マツ科 別名ダケモミ・ニッコウモミ) 幹周 3.2m 樹高 23m 推定樹齢 180年以上 由来 ウラジロモミは、福島県が北限であり、樹齢100年を越えると樹勢が衰えてくる。 弘前には、弘前城内のほかに、東照宮、神明宮などに植えられ、神木にされた。 九代寧親公のころに、自生が多い日光から取り寄せたものと思われる。 ● 鷹揚園記碑(オウヨウエンキヒ). 場所:本丸 1908年(明治41年)、弘前公園に皇太子(後の大正天皇)が来園した折、当時の青森県知事の武 田千代三郎が公園の雅名を請い、鷹揚園と命名しました。 その事跡を記念して建てられたのが、鷹揚園記碑です。 鷹揚とは、鷹が悠然と空を飛ぶように、小さなことにこだわらずゆったりとしている様をいいます。 ● 御金蔵跡 寛文13年(1673)の絵図にすでに記載があるが、延宝8年(1680)に建設されたともいわれている。 元禄4年(1691)には屋根が瓦葺であった。 入口前には番所も置かれ、有名な古木として五つ葉のヒメコマツがあったという。 また「牛こなかせ」とよばれた小高い場所であった。 ● 御日記蔵(おにっき)跡 弘前藩庁御国日記と呼ばれる日記は、寛文元年(1661)に四代藩主津軽信政の初入部以降、明治 に至るまで綿々と書き続けられ、津軽藩政のみならず近世幕藩体制を知る重要な史料となっている この日記は、現在4200冊余が残されているが、これを保管した蔵がここにあった。 ● 本丸未申櫓(ひつじさるやぐら)跡 ここには、築城当時は五層の天守閣があったが、寛永4年(1627)に落雷で焼失したために、隅櫓 が建設された。 元禄7年(1694)に石垣を修理した際、不動明王の梵字を刻んだ石が出土し最勝院に保存されてい る櫓の方角を十二支で示したもので、未申は南西に当たる。 (画像をクリックすると大きくなります) ● (入口へ) ● |