(4)白虎隊十九士墓→自刃の場

                       


 (飯盛分店HPよりお借りしました)
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   ● 白虎隊霊場へ

                  


   ● 白虎隊 十九士墓
        明治元年(1868)の戊辰戦争において飯盛山で自刃した十九士の墓です。
        戊辰戦争後、会津藩は朝敵とされたために白虎隊の遺体を明治政府はそのまま放置しておくよう
        命じ埋葬の許可がされませんでした。
        密かに妙国寺に仮埋葬されましたが明治2年になり、この場所に合葬が許され、お墓が作られまし
        た。
        激しく壮絶な生涯を遂げた白虎隊士達ですが、ここ飯盛山で鶴ヶ城に向かい安らかに眠っています

                  


   ● 少年武士慰霊碑
        白虎隊士と同じ年齢で県内各地及び新潟・栃木・京都で戦い戦士した会津藩少年武士(14才より
        17才)の慰霊碑です。

                         


   ● 松平容保公弔歌の碑
        戊辰戦役当時自刃した白虎隊士の殉難忠節に対し九代藩主松平容保公が次の弔歌を詠まれた
        のを、現河東町八田野の篤志家八田宗吉氏がこの碑に刻み建てたものである。
           「幾人の涙は石にそそぐとも その名は世々に朽じとぞ思う」      源 容保

                          


   ● ローマ市寄贈の碑
        白虎隊士の精神に深い感銘を受けたローマ市は昭和3年ローマ市民の名をもって、この碑が贈ら
        れた。
        この碑の円柱は赤花崗で、ベスビアス火山の噴火で埋没したポンペイの廃墟から発掘した古代宮
        殿の柱である。
        基石表面にイタリー語で
          「文明の母たるローマは白虎隊勇士に遺列烈に、不朽の敬意を捧げんが為、古代ローマの権
           威を表すファシスタ党章の鉞を飾り永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る」
        裏面に
          「武士道の精神に捧ぐ」
        と刻まれてあったが、第2次世界大戦後占領軍の命により削りとられた。

                         


   ● 白虎観音

    * (白虎観音)・・・(白虎隊士の剣舞を披露)

                         


   ● 石碑(嗚呼 忠烈白虎隊)

                          


   ● 石碑(郡上藩 凌霜隊之碑)
       道ハ一筋ナリ
         此の碑は戊辰の戦に 会津侯を盟主と頼み各地に転戦して若松城の籠城戦に参加し白虎隊と
         共に奮戦死闘した美濃国郡上藩凌霜隊の事績を偲び 且つその霊を慰め永くこれを後世に伝
         えるため郡上の石で郡民等の浄財によって建立したものである

                              


   ● 飯沼貞雄翁記念碑
        飯沼貞雄翁記念碑 碑文復刻
        飯沼貞雄君は会津藩士一正の次男  童名貞吉 幼にして慧敏果敢
        明治5年工部省に任官 電信電話の技術を担当
        要職をを歴任し仙台逓信管理局工務部長を退くまで40余年自ら慎み他を恕し、逓信事業に輝かし
        い功績を遺して昭和6年仙台の邸に没した 享年78
          明治戊辰の役白虎隊は全員飯盛山に自刃し君も亦その一員であった
          偶一藩士の妻が20の屍の中になお微に体温を存ずる君を発見 百方介抱し遂に蘇生せしめた
          洵に天の摂理という外なき奇しき運命であった
          併し 君が終生胸底深く蔵めて忘れ得なかったのが 往年の盟友への思慕であった
        今年白虎隊士90年祭に常り、郷里会津と逓信関係の有志によりゆかりの山に、君の墓碑を建てら
        れた。
        君と19人の同志は泉下に手を執り合い満足の笑みを交していることであろう
      記
        飯沼翁は、戊辰戦役に当たり、白虎隊の一員としてこの地に自刃せるも唯一人の蘇生者となり白
        虎隊の忠烈果敢な行動を世に傅う。
        後逓信事業に挺身し碍子の考案等事業に対する貢献多大のみならず翁の清廉にして高潔なる人
        格と生涯は後生の事業人に尊い教訓を与え洵に崇敬に堪えず、茲に翁ゆかりの故山に墓碑を建
        立し、謹んでその霊を弔う。               昭和32年9月24日

                         


   ● 飯沼貞雄翁の墓
        白虎隊士自刃者唯一の蘇生者飯沼貞吉少年(後貞雄と改めた)は印出新蔵の妻ハツに助けられ、
        後逓信省の技師となり仙台逓信局工務部長に進み、逓信事業に挺身し多大の貢献をなし、昭和6
        年78才で仙台市において歿した。
        白虎隊の実録も飯沼貞雄氏によって知ることができた。
        昭和32年9月戊辰戦役90年祭に財団法人前島会仙台支部の手によって、ここに墓碑と顕彰碑が
        建てられた。

                           


   ● 白虎隊自刃の場
        慶応4年(1868)8月23日(新暦10月8日)、年齢が16〜17歳で構成された士中二番隊の白虎隊士は
        猪苗代から十六橋を越えて進撃した西軍と戸の口原で交戦するも、敵の軍事力に圧倒されて退き
        戸の口洞門をくぐってこの地に至った。
        炎上する城下を前に、玉砕か帰城かを巡って、激論を戦わした。
        敵陣突入を提案する者もいれば、鶴ヶ城が簡単に落城するはずはないとして帰城を主張する者も
        いた。
        しかし最終的に「誤って敵に捕らえられ屈辱を受けるような事があれば、主君に対して大変申訳な
        く、祖先に対しても申訳ない。この場は潔ぎよく自刃し、武士の本分を明らかにするべき」との決断
        にはじめて、全員が同意し、一同列座し南鶴ヶ城に向かって訣別の意を表し、全員が自刃した。
        後、一名が蘇生。その名は飯沼貞吉である。
        なお鶴ヶ城開城はその一ヶ月後であった。    平成23年(2011)9月23日 白虎隊の会

                      


                              


                           


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