(4)菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓 1

                            


                 <<二の丸広場−→菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓 1>>


                       (画像をクリックすると、大きくなります)
   
  ● 二の丸
        寛永の大火(1631)後、二の丸に「千畳敷」と形容される豪華な御殿が建てられ、藩庁として利用さ
        れました。
        元禄年間の増築で拡充されたが、儀式の場である「表向」、殿様が日常政務を行う「御居間廻り」、
        妻子や奥女中の生活の場である「奥向」という三つの空間に仕切られていました。

   ● 二の丸広場
        菱櫓・五十間長屋の裏側にある金沢城の奥座敷的な広場です。

                  


   ● 菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓へ
        開館時間・・AM9:00〜PM4:30  休館日・・12/29〜1/3  入館料・・大人/\300 小人/\100

    * (二の丸案内所)・・・(菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓入口)・・・(案内図)

                  


   ● 金沢城の歴史
        前田利家と金沢城
           天正10年(1582年)本能寺の変で織田信長が没し、その後の覇権をかけた柴田勝家と羽柴
           秀吉の争いは、翌年(1583年)賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで秀吉の勝利に終りました。
           この時、佐久間盛政も伯父勝家とともに敗れ去り、秀吉に服属した前田利家が、石川・河北
           の加賀ニ郡を与えられ、能登七尾から金沢城に入り大がかりな城の整備に取りかかりました
           天守閣の創建や、本丸周辺の石垣構築、大手口の付け替えなど、いずれも城の根幹に関わ
           る工事を行いました。
           信長時代からの技術を受け継いだ職人集団が、金沢でもその技を発揮したと考えられてい
           ます。
           キリシタン大名としてよく知られ、茶人として、また築城の名手として知られた高山右近が秀
           吉に追放されたのち金沢に招かれており、右近は慶長期(159〜1615年)の城整備において
           その才能を発揮しました。

        金沢御堂と佐久間盛政
           金沢城の地が歴史の舞台に登場するのは金沢御堂が最初です。
           金沢御堂は、天文15年(1546年)加賀一向一揆の拠点として城内に創建され、本山である
           本願寺から僧侶が下向し、寺内町が形成されました。
           寺内町金沢に多くの人が集まり、北陸門徒の信仰の中心地となり、経済的にも政治的にも
           本願寺を支える一大勢力となりました。
           天正年間に入ると、本願寺と一向一揆は全国各地で織田信長の軍勢と凄惨な戦いを繰り
           広げました。
           加賀へは信長の命を受けた柴田勝家らが進攻し、天正8年(1580年)勝家とその甥の佐久
           間盛政によって金沢御堂は占領されました。
           金沢城の最初の城主となった佐久間盛政は、一向一揆の反撃に備えて堀や土塁の整備
           を急ぎました。

                     


        明治以降の金沢城
           明治4年(1871年)の廃藩置県により、金沢城の地は兵部省(翌年陸軍省)の所轄となり同8年
           から歩兵第七連隊が入城しました。
           同14年には失火によって、残っていた金沢城の御殿や門、櫓などそのほとんどを失い、石川
           門、三十間長屋を残すのみとなりました。
           第二次大戦後は大蔵省の所管となり、国立大学誘致運動の中で文部省に貸与され、昭和24
           年(1949年)金沢大学が開学しました。
           平成8年(1996年)3月、金澤大学の移転に伴い、石川県が国からこの地を取得し、金沢城址公
           園として整備を進め現在に至っています。

        金沢城の整備
           利家によって整備が始められた金沢城は、本丸を中心に、東丸、二の丸あた りが城域であ
           り、三の丸や二の丸御数寄屋、新丸などには重臣の屋敷が配置されていました。
           慶長7年(1602年)10月晦日の落雷によって天守閣が炎上・焼失し、利家時代の象徴がなくな
           ってしまいました。
           その後、現在に至るまで天守閣が再建されたことはなく本丸には物見を兼ねた三階櫓と本丸
           御殿が建てられました。
           寛永8年(1631年)の火災でも金沢城は被災し翌年辰巳用水が整備されるとともに、城の機能
           の中心が本丸から二の丸へと移されていきました。
           二の丸御殿は、元禄年間(17世紀終り頃)には「千畳敷」といわれるほどに広大な建物となり、
           藩主前田家の公館であり、加賀藩の中央政府として、重要な位置を占めるほどになっていま
           した。
           宝暦9年(1759年)の火災は、金沢城において大きな転機をなりました。
           この火災で、城内はごく一部を除いて全焼し、三階櫓や本丸御殿、二の丸御殿などはすべて
           焼失しました。
           その後の復興では、特に実用性に主眼がおかれ、本丸の地は初期の歴史を語るための象
           徴以外その役目を終え、すべての機能が二の丸に集約されました。
           新丸にあった御細工所が城外へ出されたのもこの時です。
           また、現存している石川門はこの火災の後、天明8年(1808年)に再建されたものです。
           さらに文化5年(1808年)の二の丸火災では、全焼した二の丸を再建する際、郷土ゆかりの絵
           師を起用したり、幕府からの補助金を断って領内からの寄付金を集めるなど、地元志向の強
           いものとなりました。
           二の丸御殿に表と奥の二つの能舞台が作られたのも、一部に二階建てが取り入れられてく
           るのもこの文化の再建によるものでした。

                      


   ● 出し(出窓)の石落とし
        この建物には大小7箇所の石落としが設置されている。
        出しは出窓形式で三方に窓が付いている。
        また床面は蓋が開くようになっており、戦闘の際は石垣をよじ登る敵兵を防ぐ役割を担っている。
        これを石落としといい、窓は鉄砲狭間として用いられる。
        菱櫓の石落としは出が大きく、唐破風、千鳥破風と意匠的にも工夫され華やかである。

                  


                    


   ● 菱櫓
        規模等:3層3階建 高さ17.34m
        構 造:床、天井、柱。梁の断面などが菱形
          (四隅の角度が80°と100°)
        「菱形」の謎
           菱形構造にした理由には諸説があります。
           一説には金沢城正門の大手門(尾坂門)と搦め手門の石川門の両方を、同時に広い視野で
           監視するため、角度を開いた菱形にしたと言われています。
           菱形の木組みには高い技術を必要とし、棟梁の腕の見せどころでした。

                                


   ● 菱櫓柱脚部実物展示
        礎石(基礎石)の上に立った通し柱(3層分14m)の柱脚部を耐震補強のため、柱と四方の足固めで
        緊結している。
        柱の断面が菱型をしているので、仕口(接合方法)が複雑になっている。
        地表面は三和土(たたき)仕上げになっている。

                                


   ● 復元階段

                  


   
                         (画像をクリックすると、大きくなります)


                               ● (入口へ) ●

 

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