(1)石碑「夕焼の鐘」

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  ● 広い駐車場になり、広場の真ん中に「夕焼の鐘」の碑があります。
      正面には、「観栖寺 夕焼の鐘」
      裏側には、「ふるさとはみな懐かしく温かし 今宵も聞かむ夕焼の鐘  中村雨紅 昭和42年11月8日」


                             



  ● 進んでいくと左側にスロープがあり、上がっていくと山門になります。


                          



  ● 直進すると、山門への階段があります。


                              



  ● 山門への階段の右側に 「当寺古伝」 お地蔵様が並んでいます。
       当寺古伝
         四世規外智範和尚 本尊厨子等に録して曰う(平成5,2焼失) 当地に応仁年中既に草庵堂舎存
         せしこと明白なりと(応仁2年 1468年)

         十九世祖伝哲苗和尚 新鐘を鋳するに勧募して曰う(天保12年1841年)当寺鐘楼文明年間造立
         寛政の風災に倒壊、その龍頭を土中に得たりと(文明1469〜1486年)古記に言う。

         心源二世(実開山及天応院等開山)天叟順孝禅師(天文3没 1534年)退隠して当地山
         北に庵を営み傳通庵と称すと。

         美山の古話に伝う。心源四世 独峯山を開き先徳の遺光を巽に望み畏旭と共に乾より拝すとして
         寺を乾畏と名づけ、補陀峯に香を献ずとか。

         里伝に言う。往昔、夜中「葦ケ澤」に異光を伴って飛来するものあり。里人等翌朝怪しみ求む。
         千手千眼観音像等を得て祀ると(応仁前 京師鎌倉乱れ、流離して八王子に寄留する貴人多く、
         その持佛なるか)

         慶安3年 家光公 朱印文書に曰う「先規にならい」八石一斗観音堂領として寄附す」
         (以後の11通は「」の中の文言を欠く)(慶安3年、1650年)

         当寺過去帳に載せて曰う、当地開闢は大年法椿禅師(洞山正宗第三十七世 天文2年没世寿75)
         と、終に心源七世 天永琳達禅師先哲、順孝和尚の遺跡を惜慕、堂舎を新たにし寺を観栖と名づ
         くと、旧位牌堂の順弥壇は古堂の再開にして北条鱗二個を打ちし物なりき、平成9年5月 先位十
         七回忌に三十六世 一乗記

       お地蔵様  (左/持地尊・・修羅道  中/除蓋障尊・・人間道  右/日光尊・・天人道)


                          



  ● 山門への階段の左側に 「説明文」 お地蔵様が並んでいます。
       説明文
         当寺24世25世天柱國法大和尚七回忌の辰に当り
         関東大震災以降、激動の58年の住持の功に酬いんため
         景観整美の意をもってここに建立する
               昭和62年5月 観栖寺檀徒一同 二六世一乘

       お地蔵様  (左/檀陀尊・・地獄道  中/寳珠尊・・餓鬼道  右/寳印尊・・畜生道)


                  



  ● 山門への階段を上ります。


                          




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                                 ● (入口へ) ●


    

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