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<<(4)花見橋−→成巽閣−→梅林−→舟之御亭−→松の傷−→台座石−→長谷池−→時雨亭>> ● 花見橋 ● 擬宝珠(ぎぼうし)の欄干がある木橋。 橋から見る花の眺めがすばらしいことから、この名前がつきました。 花の季節になると、緩やかに流れる曲水に沿って、桜、カキツバタ、サツキ、ツツジなどが咲き誇り、多 くの人を魅了します。 夏の緑陰、秋の紅葉、冬の雪景も見逃せません。 ● 成巽閣(せいそんかく) ● 文久3年(1863年)に加賀藩13代藩主前田斉泰が母・真龍院(12代斉広夫人)の隠居所として建てた 建物で、兼六園に隣接しています。 建築当時は巽御殿(たつみごてん)と呼ばれましたが、後に成巽閣と改名。 一階は書院造で二階は数奇屋造になっており、江戸時代末期の大名屋敷の代表的建築として、国の 重要文化財に指定されています。 また付随する庭園「飛鶴庭」も、国の名勝に指定。 内部は歴史博物館として、書画、人形等の展示が季節ごと開催しています。 ● 梅林 ● 明治100年記念事業として全国石川県人会連合会・兼六園茶店・組合・大宰府等各天満宮・河北郡七 塚町(現かほく市)等の協力により全国から名梅を集め、面積3000uに20種200本の梅が植えられてい ます。 平成12年、時雨亭の庭園として再整備されました。 ● 舟之御亭 ● 夕顔亭、時雨亭、内橋亭とならぶ蓮池庭四亭の一つ。 舟之御亭は他の三亭とは違い、舟形をした簡素な四阿です。 現在の眺望台の北西にあり、日本海から白山連峰までのパノラマを楽しむ御亭でした。 消失した時期は不明。 平成12年(2000)に時雨亭とともに復元が計られ、梅林を流れる曲水のたもとに建てられました。 古絵図によると4本柱でしたが、安全面から8本柱となり、左右両側には木製ベンチがついて、来園者の ための休憩処として蘇りました。 (全景は、パノラマでご覧ください) ● 松の傷 ● この松の傷は太平洋戦争が終った年、昭和20年(1945)の6月頃、政府の指示で軍用航空機の燃料に するために松脂を採取したあとです。 ● 銅像の台座 ● この大きな戸室石は、兼六園の「明治記念之標」に乗っている日本武尊の銅像の台座石でした。 平成3年(1991)に「標」を大修理しましたが、台座石はひび割れがひどく再使用できなかったため新しい 石と取り替え、この台座石は「標」の創建(1880)を記念するためここに残したものです。 ● 長谷池(はせいけ) ● 明治の初め、長谷池周辺には金沢の2代目市長、長谷川準也の住居がありました。 長谷池は、その時代につくられた私設庭園の池です。 霞ヶ池から翠滝への水流を分水して水を引き、左奥に男滝、右奥には女滝がつくられています。 薄暗い場所で散策のメインルートからは外れていましたが、平成12年(2000)に長谷池周辺整備事業が 竣工。 長谷池のそばには明治時代に取り壊された時雨亭が復元され、梅林へと流れる曲水がつくられました。 * (時雨亭芝生)・・・(長谷池) ● 時雨亭 ● 加賀藩5代藩主・前田綱紀は、1676年(延宝4年)に作事所を城内に移し、その跡に蓮池御亭(れんちお ちん)を建て周辺を作庭しました。 これが兼六園の始まりです。 6代藩主・吉徳は御亭を建て替えましたが、藩政後期には時雨亭とも呼ばれていました。 明治のはじめに取り壊されるまで、今の噴水の前にありましたが、平成12年3月現在地に再現しました。 庭側の10畳と8畳、さらにそれに続く御囲は、残されていた当時の平面図により復元した部分です。 * (時雨亭)・・・(長谷坂) (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |