(3)絹の道資料館2

                 


                        (絹の道資料館パンフレットを使用しました)


                          (画像をクリックすると大きくなります)

  

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  ● 事務室の前が、展示室入口です。

                          



                  



       桑の都と織物のまち
          江戸時代に「桑の都(みやこ)」と呼ばれていた八王子は、明治時代には織機の音があちらこちら
          で聞こえる「織機のまち」として、全国的に知られるようになりました。
          明治33年(1900)に発行された「地理教育鉄道唱歌」第八では、「はやも来れり八王子 ここぞ名
          に負う織機の 市に賑う一都会」と紹介されています。
          江戸時代、横山宿と八日市宿で交互に開かれた織物市場では、八王子や周辺の村々で織られ
          た大量の織物が取引されました。
          市場で活躍したのが、織物を求めて京阪方面などからやてくる呉服商人と機屋を仲介する買い
          買継商人(縞買い)です。
          明治時代になると、八王子の街中に大きな屋敷を構える買継商人もいました。
          機屋は、織った反物を直接買継商の屋敷に持ち込んで取引することもありました。


                          



                          



       買継商渋谷定七商店の模型/明治41年(1908)制作 縮尺30分の1(尺)
          渋谷定七商店は、大横町にあった有力織物買継商です。
          当主の渋谷定七は、明治32年(1899)に設立した八王子織物同業組合の初代組合長に就任し、
          明治大正期の八王子の織物業界の発展に貢献しました。
          定七は、明治29年に宅地650坪を買い取り店舗を建てましたが、翌年の八王子大火で焼失して
          しまいました。
          展示資料の模型は、明治41年に定七が店舗を新築する際に名古屋の宮大工に作らせたもの
          です。 この模型の設計では、部屋が薄暗くなってしまうため、改良した第二案の模型が作られ、
          新店舗は明治44年に完成しました。
          残念ながら、昭和20年(1945)8月2日の八王子空襲で店舗は焼失し、模型だけが当時の繁栄を
          現在に伝えています。


                          



       雲龍図  英 雪信筆 永泉寺蔵
          永泉寺観音堂の天井に描かれていたもの
          作風は、多摩の幕末・明治期の絵師たちの大きな影響を与えた狩野派の流れをくんでいます
          作者英雪信は、まだ多摩地方の絵師の中では知られていない人物です。

       唐獅子図  永泉寺蔵
          杉戸に描かれた唐獅子図で、複数あって部屋を飾ったものとおもわれます。


                  




       欄間彫刻  永泉寺蔵  (上)
          龍をモチーフにした欄間飾りで、精巧な彫刻の上に彩色をほどこしてあります。

       欄間彫刻  永泉寺蔵  (下)
          けやきに彫られた唐獅子で、立体感に富み重厚な雰囲気が良く表現されています。


                  



                  



       八王子と横浜を結んだ道(右画像)


                          



       八王子と横浜を結んだ道(左画像)
         横浜開港と八王子
            江戸時代、甲州道中最大の宿場町であった八王子は周辺の多摩を始め、相州・津久井、甲
            州・郡内などの地域からいろいろな物資が集まり、特に織物の市は「縞市」と呼ばれて活況
            を呈しました。
            安政6年(1859)、横浜が開港すると八王子周辺の生糸は横浜へ貿易品として運ばれていき
            ます。 横浜から西洋の文物が流入し、その後のこの地域(八王子・町田・相模原)に多くの
            影響を与えることになるのです。
       八王子と横浜を結んだ道(左中画像)
         八王子から横浜へ
            八王子から原町田を経て東海道神奈川宿に至る道は、内陸の武相の村々や八王子へと、生
            活物資が行き交う道でした。
            横浜開港後、外国との貿易が活発化し、様々な物資が横浜へ向かいました。
            そのため、今までの流通路に変化が生じてきます。
            最初は、八王子宿と繋がりの深い神奈川宿への道(現在の横浜線及び恩田川沿いルート)が
            利用されました。 しかし、幕府は江戸の問屋の権利を守るため万延元年(1860)「五品(雑穀・
            水油・蝋・呉服・生糸)江戸廻送令」を出します。
            このため、八王子周辺の生糸商人たちは、幕府の規制を避けるためにも生産地と横浜を直線
            的に結び、直接取引のできるルート(現在の国道16号沿いルート)を利用するようになります。
            次第に、幕府の「五品江戸廻送令」も実効力を失いますが、鉄道ができるまで、この道が重要
            な役割を果たしたのです。  (明治前期測量2万分1フランス式彩色地図を参照)
       八王子と横浜を結んだ道(右中画像)
         絹の道
            横浜開港により、一躍脚光を浴びることになった絹の道。
            横浜開港以前は東海道の神奈川宿から生活物資などを運ぶ道でした。
            八王子方面からは「神奈川道」とか「神奈川住還」と呼ばれ、また、神奈川宿から八王子方面
            へ向かう道は「八王子道」と呼ばれており、複数のルートが存在していました。
            横浜開港後は、八王子から原町田を経て芝生村(横浜市西区浅間町付近)へ直線的に結ぶ道
            が重要視されます。
            「浜街道・浜道」と呼ばれる道です。  鑓水に残る慶応元年(1865)設置の道標
       八王子と横浜を結んだ道(右画像)
         八王子指定史跡 絹の道の碑
            八王子市鑓水の大塚山公園の入口に「絹の道」の碑があります。
            八王子の郷土史家橋本義夫が昭和32年(1957)に建てた碑です。
            幕末期から明治初期にかけて八王子に集められた生糸がこの道を通り、横浜まで運ばれこと
            から「絹の道」と呼ばれるようになりました。


                             



  ● 絹の道物語 七
       生糸貿易
          開港後の日本は、諸外国の新しい貿易市場となりました。
          生糸・茶・雑貨などのほか、銀や銅もさかんい輸出されました。
          中でも生糸は、絹織物の需要が多かったヨーロッパへ、年を追うごとに輸出が増大しました。
          当時、ヨーロッパで流行した蚕の微粒子病による養蚕の打撃の影響しましたが、鎖国で中で行わ
          れてきた日本の生糸生産のコストは国際的にかなり低かったことが大きな要因でした。
          こうして海外市場に進出した日本の生糸は、品質改良をくりかえしながら、昭和のはじめまで、常
          に輸出品の上位を占めるようになりました。


                 



       横浜生糸商人と鑓水商人のつながり
          鑓水の生糸商人が、浜出し(横浜へ糸を売る)の相手としていたのは、豪商原善三郎でした。
          屋号が亀屋であったので亀善と呼ばれ、文久2(1862)年に横浜に生糸商を開いたといわれてい
          ます。  鑓水の五郎吉、要右衛門、徳左衛門などの商人達と亀善がどのようにして取引をはじ
          めたのか、はっきりわかってはいません。
          五郎吉家に残る資料からは、横浜生糸商人に牛耳られて、この取引による利益はわずかだった
          ようです。
       開港後の鑓水商人
          開港後、生糸は一挙に輸出品の花形となりました。
          これによって生糸の生産者や商人達も大きな変化を受けるようになります。
          八王子市場では、開港以前もっぱら糸の売手であった鑓水商人が、この時期より糸の買手にな
          っていきます。 八王子市で買い集めた生糸を横浜で売る、輸出のための商売にきりかわってき
          たことを示しています。
          横浜に運んだのは仕入糸だけでなく、鑓水商人が直接集めた手糸もありました。
          このため、輸出量の増加とともに、賃引き農民の負担もまた増すことになりました。


              



                           



          まゆからとったままの生糸はとても細いので、数本をより合わせて丈夫な糸にします。
          この作業を「ねん糸」といいます。
          よった糸は、高機とよばれる機織機を使ってていねいに織りました。


           




                          (画像をクリックすると、大きくなります)


                                ● (入口へ) ●


     

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