(小石川後楽園HPからお借りしました) (画像をクリックすると、大きくなります) |
<< 得仁堂−→音羽の滝−→丸屋−→白糸の滝−→松原−→ −→売店−→九八屋−→不老水−→藤棚、ショウブ田 >> ● 得仁堂(とくじんどう) 水戸光圀ゆかりの得仁堂と木像「伯夷・叔齊/はくい・しゅくせい」 小石川後楽園の造営を完成させた水戸二代藩主徳川光圀(1628〜1700)は、得仁堂を創設し、 泰伯/たいはく・伯夷・叔齊像を安置しました。 光圀が堂をつくり三像を祀ったことには、その徳を慕い、手本としていた光圀の強い思いが示さ れています。 三像のうち伯夷・叔齊像は、現存しています。 「伯夷・叔齊」とは、中国古代・殷代の小国の王子兄弟の名前です。 二人は、跡継ぎになることを互いに譲り合い、国を去ったといわれています。 これに対し国民は「聖の清なるもの」と誉め称えました。 兄弟は善政を行っていると評判の文王(ぶんおう)を慕い周の国へ行きましたが、時の王は亡く なり、子の武王(ぶおう)が継いでいました。 武王が父の葬儀も済まないうちに殷の君主を征伐しようとすることを知り、父子の道、君臣の道 に背くと諌めたが聞き入れられませんでした。 そこで二人は、「周に仕えて俸禄を受けるのは恥」として山にこもり、ワラビで命をつないでいま したが、ついに餓死したといわれています。 光圀は、6歳の時に兄をさしおいて世継ぎと定められ、苦しみ続けた自らの身と重ね、18歳で「 伯夷・叔齊」の物語を読み、非常に感銘をうけました。 光圀は「仁を行い得た人たち」を祀る得仁堂を建立し、伯夷・叔齊の木像を納め参詣したと言わ れています。 ● 得仁堂を左側にみながら少し進むと、東京ドームが間近に見えます。 ● 得仁堂まで戻り、前の階段を下りていきます。 ● 音羽の滝 京都・清水の「音羽の滝」にならって名づけられました。 もとは萓門外の水車により神田明神上水の水を汲み上げ桶により小盧山の側に流していましたが、 元禄の地震のとき水流が破壊され岩組だけが残されました。 (全景は、パノラマでご覧ください) ● 得仁堂まで戻り、「丸屋」に向かって下っていきます。 ● 丸屋(まろや) 昔の田舎のわびた茶屋のたたずまいを現しています。 戦災で焼失しましたが昭和41年に復元されました。 ● 「白糸の滝」に向かうと、工事をしています。 ● 白糸の滝・・・・残念ながら工事中 六代治保のときに造られました。 その様子が千条の白糸を垂れているように見えるのでこの名がつけられました。 ● 松原 往時は松うっそうとして空もみえざりしと伝えられています。 光圀最も珍重せる所にして将軍来園の際にも「これ天下の威光をもっても能はず」と観賞せられたる 由なり。 (全景は、パノラマでご覧ください) ● 売店 ● 九八屋(くはちや) 江戸時代の風流な酒亭の様子を現しました。 この名の由来は、「酒を飲むに昼は九分夜は八分にすべし」と酒飲みならず万事控えるを良しとする との教訓によります。 戦災により焼失したが昭和34年に復元しました。 ● 不老水・・・ショウブ田の脇 この井戸がいかなる旱魃にも水が枯れず、またいかなる洪水にもあふれ出すことがなかったことか ら不老水と呼ばれています。 ● 左側に、藤棚、ショウブ田が。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |