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<< 菊の間(正面)−→桃の間(正面)−→つつじの間(正面)−→廊下−→ −→紅葉の間(右側)−→廊下−→松の間(反対側)−→廊下−→松の間(正面)−→ −→紅葉の間(正面)−→竹の間(正面)−→梅の間(正面)−→清の間(正面)−→ −→雨戸金具−→入側−→廊下−→竹の間(裏側)−→萩の間(正面)−→ −→桜の間(正面)−→廊下−→つつじの間(右側) >> ● 菊の間 (正面より 襖絵 田中青坪画伯) 菊の間は総板敷きで厨(くりや:食事の準備の場所)として使用された部屋です。 襖十面からなり、色とりどりの菊が咲き乱れている様子が見事に描かれています。 菊の花弁には胡粉による盛り上げ彩色が施されており、花の立体感が強調されています。 菊の葉の緑は微妙な変化をつけて描かれており、画面の色彩が豊かに感じられます。 ● 桃の間 (正面より 田中青坪筆) 桃の間は総板敷きで厨(くりや:食事の準備の場所)として使用された部屋です。 桃の樹を配した襖十四面が三方を囲んだ空間をつくっています。 地面には描かれていませんが、樹の根元を描写することで画面に奥行きを暗示させています。 桃のほかに青々とした松葉が画面を分断するように描きこまれ、青坪の画面構成に対する大胆さ がよくあらわれています。 ● つつじの間 (正面より 襖絵 田中青坪画伯) ● 廊下を左折しすすみます。 ● 紅葉の間(右側より) ● 廊下 ● 松の間(反対側より) ● 廊下を進み右折すると、「梅の間」方面が見えます。 ● 松の間(正面より 襖絵 須田きょう中画伯筆) この部屋は藩主夫人がお城から好文亭においでの折、休憩されたところです。 ● 紅葉の間(正面より 襖絵 須田きょう中画伯筆) 藩主夫人が城中から好文亭においでになった時、お付きの御殿女中のおもだった者が控えていた 部屋です。 ○ 「竹の間」・「梅の間」・「清の間」の三室は、明治2年に城下柵町の中御殿から移築したもの。 斉昭夫人の貞芳院が明治6年まで住んでいました。 ● 竹の間 (正面より 襖絵 田中青坪画伯筆) ● 梅の間 (正面より 襖絵 須田きょう中画伯筆) 明治2年から同6年まで藩主夫人の居室となり、明治35年 大正天皇が皇太子の時ここにお泊まり になられました。 また、大正元年、昭和天皇が皇太子の時、秩父宮高松宮殿下と御一緒に御来亭の御休息なされ、 大正15年には、三笠宮殿下が御休憩なされた部屋です。 北原白秋」の短歌 梅の間よ 今は眺めてしづかなり 一際にしろき梅の花見ゆ 春早くここに眺むる誰々ぞ 一樹のしろき寒梅をあはれ 福岡県柳川生まれの詩人であり歌人の北原白秋(1885〜1942)が、昭和10年(1935)50歳のと きに来水し、好文亭の梅の間に描かれている寒梅図に心打たれ、「好文亭梅の間」と題して詠 んだもの。 白秋の詩集では「邪宗門」「思ひ出」が、歌集では「桐の花」「雲母集」などが特に知られている。 ● 清の間 (正面より) ● 庭 ● 廊下に戸袋を省くため廊下の曲がり角に、雨戸を直角に方向転換させる金具がついています。 戸袋がじゃまにならず視野が広がり、見事な景観がひろがります。 (私の実家にも数箇所つけてあり、雨戸を閉めるとき直角に方向転換させます) ● 入側 ● 廊下 ● 「桜の間」方面 ● 「竹の間」 (裏側より) ● 「萩の間」 (正面より 襖絵 須田きょう中画伯筆) 藩主夫人がお城から好文亭においでになった時、お供の御殿女中が休息した控えの部屋です。 隣りの桜の間も同様です。 ● 「桜の間」 (正面より 襖絵 田中青坪画伯筆) 藩主夫人お付きの婦人たちの詰所として使用されました。 ● 廊下 ● つつじの間 ( (右側より 襖絵 田中青坪画伯) ○ 太鼓廊下へ続きます。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |