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<< 芝前門−→青莪遺徳碑−→偕楽園記碑−→井戸−→くぬぎ門−→正岡子規の句碑−→南門 >> ● 芝前門(しばさきもん)をでて、突き当たりの茶店の前を右折し、駐車場に向かいます。 ● 青莪遺徳碑 この碑は十五代将軍徳川慶喜公のプレ−ン原市之進の顕彰碑である 市之進は文政13年(1830)水戸藩士原雅言の子として生まれる 藤田東湖とは従兄弟の関係にあった元治元年(1864)一橋家の用人となり 慶喜に仕える 慶応3年(1867) 兵庫開港を計ったという理由で幕臣に斬殺される 歳38であった 篆額は水戸第十一代藩主徳川昭武公で 「青莪遺徳碑」の青莪は市之進の号及び経営した塾の 名 伍軒も同じく号である 碑文は昌平黌の同学仙台藩の岡千仭 書は九州の吉田晩稼で 明治30年の建碑である ● 偕楽園記碑 偕楽園の名前の由来や創設した理由、利用の心得などが、斉昭の直筆で記されています。 碑には、斉昭の宇宙観や人生観、藩主としての姿勢、偕楽園が弘道館と一対の施設として構想 されていたことが記されています。 また、この公園は自分ひとりのものではなく、領内の人々が学問や武芸を学んだあとで余暇を利 用して休息し、心身を養うところであることを明らかにしています。 碑の裏には斉昭の定めた園内での禁止条項(六条)が刻まれていますが、その内容は今日の公 園管理の先駆をなすものといえます。 ● 井戸 ● 標識(←南門を経て梅桜橋)にしたがい、階段をおりていきます。 ● くぬぎ門 ● 南門に向かって下っていきます。 ● 標識(南門をへて吐玉泉300m 梅桜橋をへて桜山P →)にしたがって右折します。 ● 正岡子規の句碑 「崖急に 梅ことごとく 斜めなり」 この句は、明治時代の代表的な俳人である正岡子規が明治22年(1889年)4月5日に偕楽園を訪 れた際、好文亭から見た南崖の梅の印象を後年詠んだものです。 「急な勾配の崖のところにも、その地形に合わせてどの梅の木も斜めになって立ち、しかし懸 命に花を咲かせている」 写生句ではあるが、人生にも通じるものを感じさせる名句といわれています。 ● 南門 水戸城、千波湖から桜川を経て偕楽園に入る水上ルートの入口の門で、このありに船小屋や船 着場がありました。 現在の千波湖ほ広さは、大正時代の干拓により当時の三分の一から四分の一です。 * (振り返って) ● 梅桜橋がみえてきます。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |