* (31/梅林坂)・・(30/書陵部)・・(21/北桔橋門) ・・(20/天守台)・・(23/大奥跡)・・(12/本丸大芝生) (画像をクリックすると、大きくなります) |
<< 梅林坂−→書陵部−→北桔橋門−→天守台−→大奥跡−→本丸大芝生 >> ● 梅林坂を登っていきます。 梅林坂は、本丸と二の丸を結ぶ坂です。 文明10年(1478)太田道灌が天神社をまつり、数百株の梅を植えたので梅林坂の名が付いたといわれ ています。 現在は約50本の紅白の梅が植えられており、12月末から2月まで花が楽しめます。 ● 「書陵部」前を通過。 書陵部は、皇室関係の貴重な図書等や陵墓を管理しています。 ● 左折すると天守台、直進すると北桔橋門になります。 北桔橋門(きたはねばしもん) 皇居東御苑の北側にあり、本丸の大奥から外部に直接通じる重要な門のため、濠(平川濠・乾濠) を深くし石垣を最も堅固にしています。 橋も跳ね上げ式にし、有事の際には外部に逃げたり、交通を遮断出来る様になっていました。 現在は、冠木門と橋だけが残っています。 太田道灌の時代には、この付近が城の大手(正面)であったと伝えられています。 江戸時代は門を入った所に江戸城本丸の天守閣がありました。 * (東御苑内より振り返ると) ● 天守台に向かいます。 (全景は、パノラマでご覧ください) ● 天守台 最初の天守閣は、1607年、二代将軍秀忠の代に完成しましたが、その後大修築され、1638年、三代 将軍家光の代に、江戸幕府の権威を象徴する国内で最も大きな天守閣が完成しました。 外観5層、内部6階で、地上からの高さは58mありました。 しかし、わずか19年後の1657年、明暦の大火(振り袖火事)で、飛び火により全焼し、以後は再建され ませんでした。 江戸城本丸御殿 この天守台から見える大芝生とその周辺には、江戸城本丸御殿の建物が立ち並んでいました。 本丸御殿は、表(おもて)、中奥(なかおく)、大奥(おおおく)という3つの空間に分かれていました。 表は、将軍の謁見など公的な儀式・行事、幕府諸役人の執務の場で、中奥は将軍の日常生活、政 務を執る場、大奥は御台所(みだいどころ)と呼ばれた将軍の正妻をはじめ家族や女性たちの生活の 場でした。 * (大奥跡・本丸大芝生がよくみえます) (全景は、パノラマでご覧ください) ● 天守台前に「大奥跡」が広がります。 大奥は御台所(みだいどころ)と呼ばれた将軍の正妻をはじめ家族や女性たちの生活の場でした。 (全景は、パノラマでご覧ください) ● 本丸大芝生 開放された芝生地です。 明治維新の直後、本丸跡は焼け野原で、第二次大戦後も野菜畑や桑畑の時代もありました。 本丸跡は気象台発祥の地でもあり明治期から昭和30年代まで気象庁の官舎もありました。 明治4年(1871)正確な時間を知らせるために、ここに午砲台(ドン)が設置され、昭和4年(1929) に廃止されるまで、「ドン」の愛称で東京府民に親しまれていました。 ここでは、平成2年11月、大嘗祭(だいじょうさい/天皇陛下の御即位後に行われる一世に一度の 重要な儀式)が執り行われました。 * (午砲台跡) (全景は、パノラマでご覧ください) (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |