(3)本丸跡〜与次郎稲荷神社

                                 


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          <<本丸跡−−→佐竹義堯像−−→八幡秋田神社−−→与次郎稲荷神社>>

 ● 本丸跡 ●
     久保田城が築かれた神明山は、三つの高地からなる標高40m程の起伏のある台地で、別名三森山。
     築城は慶長8年(1603)5月から着工され、翌9年8月に完成。
     本丸は、最も高い所を削平や土盛をし、平らにして造られました。
     東西65間(約117m)、南北120間(約215m)のほぼ長方形を呈し周囲には高さ4〜6間半(約7.3m〜11.8m)
     の土塁を構築しています。
     本丸の建造物には、表門から入った正面に玄関が置かれ、政庁である政務所が設けられており、池を
     配した中央部には藩主の住居である本丸御殿がありました。
     また土塁の上を多聞長屋と板塀で囲み、要所には隅櫓を置き北西隅には兵具庫を兼ねた御隅櫓を設
     けた西南隅の土塁上には櫓座敷と呼ばれた書院風2階建ての「御出し書院」が造られました。
     出入口は周囲に表門(一ノ門)、裏門、埋門、帯曲輪門の四門に、御隅櫓に通じる切戸口がありました
                              平成6年12月  秋田市

                          


 ● 佐竹義堯像 ●
     中村藩主・相馬益胤の子として生まれ、秋田新田藩佐竹義純の養氏となり最後の12代藩主をつとめま
     した。 戊辰戦争では、新政府軍に協力し、廃藩置県後は東京に移住し、後に侯爵に。
     佐竹義堯公を敬慕する旧家臣が中心に、戊辰戦争後50年にあたる大正4年(1915)公の銅像を建立。
     しかし銅像は太平洋戦争のさなか 国の金属回収策のためその姿を消しました。
     昭和28年(1953) 旧銅像の原型として残されていた小型像を奉安していましたが、市制百周年(1989)を
     迎え記念事業として完全なる姿では往年の義堯公銅像に復元されました。

                          


       


                       


                          (全景は、パノラマでご覧ください)

 ● 八幡秋田神社 ●
     八幡秋田神社は、初代藩主佐竹義宣公始め、歴代の藩主を祀る、秋田県の有形重要文化財でした。
     しかし平成17年1月9日の放火により社殿を焼失し、 現在、沢山の方々の支援により再建されました。

                  


 ● 与次郎稲荷神社 ●
     佐竹義宣に仕えた老狐
        神明山(千秋公園)久保田城を築いた佐竹義宣公の前に、一匹の大きな狐が現れました。
        狐は義宣公に、「神明山に住んでいた齢三百の狐の頭である。築城により住む場所をなくし困って
        いるので、住む場所を与えてほしい。願いがかなえられたら、必ず殿のお役にたちます」と願い出ま
        した。 義宣公は、狐に城の茶園の近くの場所を与え、「茶園守の与次郎」と呼ぶことにしました。
        与次郎狐は義宣公のため、飛脚として秋田〜江戸をわずか六日で往復し、大いに働きました。
        しかし仕事をなくした飛脚達の恨みをかい、羽州街道の六田村(山形県東根市)で罠にかかり殺され
        ました。
        与次郎狐の無念の死を哀れみ、義宣公が祠をつくりその霊を祭ったのが、「与次郎稲荷神社」です。

        山形の殺された場所の近くにも、その霊を祭った「与次郎稲荷神社」があり、秋田藩が参勤交代の折
        に、たびたび参拝したとも伝えられています。

                  


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                                ● (入口へ) ●

 

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