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<< 稲荷曲輪−→稲荷櫓−→線刻画−→展示物−→硝煙蔵跡−→井戸−→北側出口へ >> ● 稲荷曲輪 ● 稲荷櫓 城内の鬼門(北東)に位置することから艮櫓(うしとらやぐら)ともよばれ、江戸時代には武具蔵として 使われていた建物です。 明治初年まで残っていたことが古写真などでわかっており、発掘調査でも2度にわたり建物を建築 した痕跡(遺構)と、土地の平安を祈るための輪宝(地鎮具/じちんぐ)が6点見つかりました。 今の建物は、この遺構や残っていた絵図や史料などをもとに、できるだけ当時の姿に復元したもの 平成16年に建築しました。 櫓の外観 二階層 入母屋造り 瓦葺 白壁 窓 鯱 北・東側に石落とし 櫓の規模 南北(梁間)五間(10m) 東西(桁)六間(12m) ○ 痰壷 江戸時代初期には全国に普及したが、非常に高価な薬品として普及しており、喫煙できるのは裕 福な武士か商人のみであった。 江戸幕府は火災予防や奢侈禁止の観点からしばしば煙草禁止令を出しているが、幕府や藩の専 売とすることで次第に許可されていく。 江戸中期には煙草の値下がりと共に庶民への喫煙習慣も広まって10匁(約38グラム)が8文程度で あった記録が残されている。 また、この時期に煙管、煙草盆、煙草入れなどの工芸品が発達した。 ○ 稲荷櫓の鯱瓦 この鯱瓦は、稲荷櫓が建てられた江戸時代初期を想定していますが、復元するにあたり参考にと なる発掘調査の出土品が少ないため時代性や制作背景の近い大阪城の鯱瓦を模して作りました ○ 二階へ ○ 甲府城復元模型 甲府城跡は、甲府市街のほぼ中心にあって、堀や石垣をめぐらせた山梨でただ一つの本格的な 城郭遺構です。 この城は、天正10年(1582)の武田氏の滅亡後に、徳川氏により築城が始められ、さらに豊臣氏 系の人々によってほぼ完成をみますが、後に再び徳川氏の城となって発展した歴史をもちます。 この模型は柳沢氏が城主であった18世紀初頭ごろの甲府城のすがたを再現しています。 ● 線刻画(せんこくが) 城内の石垣石材には鳥や魚の絵や☆・×・井の記号が多く描かれています。 これは築城当時に作業の安全を願った「おまじない」と考えられています。 ● 展示物 ○屋根のはなし 瓦屋根では、まず設計図である「瓦割り図」を描きます。 これから瓦を載せる下準備として、薄い板を何層にも竹釘で打ち付ける野路板葺きをします。 この上に瓦受けの桟を付け葺き土を起きます。 そして、瓦を載せ数枚ごとに銅線でしばり付け固定していきます。 ○瓦葺きの工程 屋根瓦は1690年頃に使用されていたと考えられる出土品瓦をもとに復元しています。 (1)屋根組・・屋根の骨組み (2)野路板葺き・・檜の板を垂木に打ち付けます。 トントンと音を立てながら打ち付けるので「トントン葺き」とも言われています。 (3)土居葺き・・サワラ材を垂木を使い野地板に打ち付けます。 (4)葺土・・瓦を葺く筋に土を盛ります。 (5)本瓦葺き・・本瓦を葺いて完成です。 稲荷櫓では、平瓦8,491枚、丸瓦3,789枚、特殊瓦5,310枚、鯱瓦(しゃちほこかわら)2個、鬼瓦18個 使われています。 ○稲荷櫓の壁について 土の壁を作るには、まず最初に土にワラを混ぜ込み腐らせて粘りけのある壁土を作ります。 それを荒壁塗り・斑直し(むらなおし)・中塗り・上塗りというように段々と細かい土を塗り、漆喰で仕 上げます。 適の攻撃や火災を防ぐために壁を厚くしていったようです。 ○稲荷櫓の壁について(大壁外側の場合) 壁塗り(左官)では今回の復元では「10回の工程」で進めています。 小舞掻き(こまいかき)・・骨組みのこと (1)手打ち荒壁・・壁土の最初 (2)大斑直し(おおむらなおし)・・下げ縄2本入れ (2)-(8)まで順に砂の量を適宜増し、細かくしていきます。 (3)小斑直し(こむらなおし)・・下げ縄2本入れ (4)大斑直し(おおむらなおし)・・縦縄入れ (5)小斑直し(こむらなおし)・・横縄入れ (6)中塗下地大斑直し・・ムラを直す (7)中塗下地小斑直し・・ムラを直す (8)中塗り・・土壁の最終工程 (9)上塗下地・・漆喰の下地(砂漆喰壁) (10)上塗り・・完成(城漆喰壁) ● 硝煙蔵跡 ここには甲府城の火薬庫だった建物がありました。 このような建物は全国のどのお城にもありましたが、地下構造で特別な防湿構造をもっている珍し い遺構です。 ● 井戸 ● 「北側出口」に行くことができます。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |