「松連庵」・「三檪庵」のふたつの施設は貸し出しています (画像をクリックすると大きくなります) |
<< 寿昌梅−→松連庵−→神社門−→三檪庵−→藤棚−→心字池−→子育て地蔵 >> ● 寿昌梅(じゅしょう ばい)の由来 ひときわ目を引く梅の古木は徳川家康長男岡崎三郎信康悼のため寿昌院(寿昌院慈岳元長尼)が 植樹したと伝わる。 寿昌院は小田原藩主、江戸幕府老中の大久保忠増の夫人で、享保2年(1717年)に黄檗宗の高僧 慧極道明を開山僧とし、この地慈岳山松連寺を開基した。 大久保氏は徳川家康の三河時代からの忠臣であったが、初代の大久保忠世が預かる遠江国二 俣城で、天正7年(1579年)に岡崎三郎信康が謀反の疑いをかけられて自刃するという大きな事件 がおきる。 この事件以降、140年間にわたり大久保家では信康とその母築山御前の追悼のための寺院を各地 に度々建立しており、慈岳山松連寺の創建理由や寿昌梅植樹伝説などの根拠にもなっている。 寿昌院は寛保元年(1741年) 65歳で亡くなった。 その墓塔は、百草園に近接する七生丘陵散策路の傍らにある慈岳山松連寺関連墓地にひっそりと 佇んでいる。 令和4年3月 日野市教育委員会 ● 松連庵 室内の「百艸園/もぐさえん」の額は、明治20年に百草園を開園した際、青木角蔵によって掲げられた ものです。 角蔵の友人、中国浙江省の書家、王仁爵(おうじんしゃく)によって揮毫されました。 ● 京王百草園で見かける昆虫たち 自然が多く残された百草園内では初夏から初秋にかけて様々な昆虫が姿を見せます。 甲虫ではノコギリクワガタや羽色の美しいタマムシ等が生息し、木々では各種セ ミが鳴き、蝶たちは 木陰を行き来しています。 京王百草園では、このような一昔前までは普通に見られた自然や環境を大切に考え、虫たちにとって 欠かせない木々や草花を守っています。 ごみの持ち帰りなど小さなことから環境の保全にせひご協力ください。 ● 京王百草園と自然環境 京王百草園では植栽された梅などの他、自生植物も大切にしているため様々な生きものが生息してい ます。園内で見かけた時は、そっとお見守りください。 一方こうした環境保全(エコ活動含む)の一環として持込みゴミ削減をお願いしております。 ぜひご協力ください。 *ヒヨクヒバ(比翼檜葉) 一名・イチヒバ ヒノキ科ヒノキ属 サワラの園芸種 葉は細長く糸状に垂れる 稀に結実する ● 神社門(当面の間、休止しています 百草八幡宮へは正門からお廻りください) ● 三檪庵 (さんれきあん/有料の貸室) 秋田杉の無垢材をふんだんに使った茶室・三檪庵。 梅軒門から一歩足を踏み込むと、そこにはまた別の空間が広がります。 ● 藤棚をくくり、心字池を右にみながら進みます。 ● 少し進むと右側に心字池を渡る橋があり渡ります。 ● 子育て地蔵 梅の名所として有名な百草園は、江戸時代の松連寺として禅寺の跡である。江戸時代の末には将軍 ゆかりの尼寺として栄え、現在残っている茶店の藁葺屋根の一部にはその名残を留めている。庭の造 りも凝っていて心字池を中心に枝ぶりのよい松や梅、柳その他の古木が今もなお美しい影を池に映して いる。池には鮒や緋鯉が泳いでいる。 この百草園の中庭に子育て地蔵がたっていて、昔交通事故で亡くなった子の物語が伝えられている。 昔、尼寺であった頃のことである。尼寺の女中ウメがいちのまにか庭師の善吉と人目を偲ぶ仲となり二 人の間にはかわいい女の子が生まれ、トキと名付けた。しかし働き者ウメに比べて善吉はなまけ者で暮 らしに困ったウメはトキを連れて郷里の新潟へ帰ったが、過労がもとでまもなく死んでしまった。 ウメの死に目が覚めた善吉は心を入れ替えてトキを背負って庭師をして働くようになった。ところがトキ が4歳いなったある日のこと、道端で遊んでいたトキに恐ろしい勢いで走って来る暴れ馬があっという間 にトキを踏み殺してしまった。 善吉は悲しんで百草の尼さまに悲しみを訴えた。尼さまは「いくら嘆いても死んだ者は帰らない。それ よりもお地蔵様を彫ってお祀りすればそれが何よりの供養です」といって慰めてくれた。そこで善吉は心 をこめてお地蔵様を刻んだのがこの百草の子育て地蔵の始めである。このお地蔵様は明治の廃仏棄釈 で一時土中に埋められたが、京王電鉄がこの土地を買収した時、土中から掘り出したものである。 (日野のむかし話より) (画像をクリックすると大きくなります) ● (入口へ) ● |