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<<嘉祥寺跡−→講堂跡−→金堂円隆寺跡−→経楼跡−→ −→鐘楼跡−→中島−→遣水−→曲水の宴>> ● 嘉祥寺(かしょうじ)跡 「吾妻鏡/あづまかがみ」によると二代基衡(もとひら)公が工を始め三代秀衡(ひでひら)公が完成さ せた御堂で、その前身は慈覚大師開山までさかのぼり、寺名は開山時の年号に由来する。 本尊は丈六(じょうろく)の薬師如来。 建物の規模は、正面7間約27.9m、側面6間約22.5mで左右に廊があり、金堂円隆寺とほぼ同じで ある。 堂内の壁や扉には法華経の教えが画かれていたという。 ● 講堂跡 本尊は胎金両部大日如来。 仏法を説き仏法を聴く堂舎であった。 また、灌頂という密教儀式を行う奥羽の灌室であったという。 正面5間19.1m、側面4間15.1mの建物で礎石34個が完存する。 嘉禄の火災後再建、天正元年(1573)の戦いによる火災で焼亡。 ● 金堂円隆寺跡 基衡(もとひら)公建立の勅願寺。 鎌倉幕府の公文書である「吾妻鏡/あづまかがみ」の中では「吾朝無双/わがちょうむそう」と称え られるほど万宝を尽くしてつくられた建物であった。 本尊は、運慶作の丈六の薬師如来。 毛越寺の中心的な堂で、東西に廊が出て南に折れ、その先端には鐘楼、経楼があった。 嘉禄2年(1226)火災で焼失した。 ● 経楼(きょうろう)跡 金堂を中心に鐘楼・経楼は全く対称の位置にあり、土壇並びに間、礎石の位置とも鐘楼と同じで、 16個の礎石が完存する。 雨落溝(あまおちみぞ)も鐘楼のと同じ造りであるが、溝の排水は暗渠(あんきょ)によって池に注が れる。 (全景は、パノラマでご覧ください) ● 鐘楼跡 金堂圓隆寺(こんどうえんりゅうじ)から左右対称に翼廊が延び、それぞれ大泉が池の汀(みぎわ)に 向かって南に折れ進む。 東廊の先端に造られたのが鐘楼である。 土壇の礎石は16個のうち13個が完存する。 ● 中島 大泉が池のほぼ中央部に東西約70m、南北約30m、勾玉状の島です。 ● 遣水(やりみず) この遣水は、庭園の発掘調査中に往時の姿のままに発見されたもので遣水の遺構は奈良の宮跡 (きゅうせき)庭園を除いては例が無く、平安時代の遺構としては唯一のものである。 遣水は池に水を取り入れる水路であり、玉石を底に敷きつめ、流れには水越し、水切りの石、その 他水の曲がり角や池への注ぎ口に石組みを配するなど平安時代の指導書「作庭記」の様式を余す ところなく伝えている。 その美しい流れとせせらぎは浄土庭園に風雅な趣を添えており、「曲水の宴/こくすいのえん」の舞 台ともなる。 ● 曲水の宴(ごくすいのえん) 毛越寺「曲水の宴」は、昭和61年5月18日藤原秀衡八百年御遠忌特別大祭の記念行事として、 藤原氏三代の栄華を偲び再現されました。 曲水の宴とは、遣水の流れに盃を浮かべ、流れ来る間に和歌を詠み、終って盃を戴くという、中 国から伝わった催しで平安時代に盛んに行われました。 当寺の曲水の宴で講師をつとめられた坊城俊民氏(披講会会長)はその様子を「桃の枝に羽觴 (うしょう)みちびく童さべ、小袿(うちぎ)狩衣おのおの歌詠む」と詠じられました。 *(右画像/パンフレットより) *(右画像/常行堂) * 常行堂方面へ (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |